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第064話 ステナイノテ・四

佐知の指は、シャッターボタンの少し上で止まっていた。


画面の中には、片方だけ鳴るスピーカーがある。


割れた角。


黒いケーブル。


弓削の手。


紙ナプキンの端。


やえの靴の先。


どれも少しずつ入っている。


どれも、きれいには収まっていない。


それでも、撮ってもいい気がした。


撮ったら終わる。


撮ったらあることになる。


撮ったら負けみたいな顔をしている。


前に言われた言葉や、自分で考えた言葉が、いくつか順番に出てきた。


そのどれも、今の画面には少し合わない。


画面の中のスピーカーは、終わっているようで、まだ鳴っている。


やめたもののようで、捨てられていない。


佐知は息を止めた。


「撮るんすか」


弓削が言った。


声は軽かった。


本当に、ただ聞いただけの声だった。


それなのに、佐知の指は固まった。


画面の中で、弓削の手が止まる。


スピーカーからは音が流れ続けている。


片方だけ。


細く。


「いや」


佐知は言った。


何に対する「いや」なのか、自分でも分からなかった。


撮らない。


撮る。


聞かないで。


違う。


全部が少しずつ混ざった「いや」だった。


弓削はすぐに「あ」と言った。


「すんません」


「別に」


佐知はスマホを下ろした。


下ろすのが早すぎた。


まるで、触る前から熱いと分かっていたものに触ってしまったみたいな動きだった。


やえは何も言わなかった。


昨日なら何か言ったかもしれない。


撮らないんですか、とか。


また保留ですか、とか。


でも、やえは口を閉じていた。


その黙り方が、少し重かった。


弓削はケーブルを持ち上げて、わざとらしく自分の髪を片手で押さえた。


「撮るなら、もうちょい髪直すんで言ってください」


佐知は顔を上げた。


弓削の前髪は、直すほど長くない。


むしろ、どこを直すつもりなのか分からない。


やえが小さく吹き出した。


「そこですか」


「大事っすよ。後世に残るかもしれないんで」


「後世に残るほどの前髪ではないです」


「厳しい」


弓削は少し笑った。


空気が、ほんの少しだけ逃げた。


逃げたというより、部屋の隅に寄った。


佐知はスマホを手に持ったまま、画面を見なかった。


撮らなかった。


消す写真もない。


最近削除した項目にも入らない。


ただ、撮らなかったという動作だけが、手に残った。


それは前と同じようで、少し違う気もした。


前は、撮れないことが全部だった。


今は、撮りたいと思ったあとで止まった。


差は小さい。


小さすぎて、言葉にしたら嘘になりそうだった。


でも、なかったことにもできない。


画面を開いた。


構えた。


止まった。


その順番だけは、自分の手が知っている。


「阿久津さん」


やえが言った。


「何」


「今の、保留ですか」


佐知はやえを見た。


やえは、からかっている顔ではなかった。


「分からない」


佐知は答えた。


「じゃあ保留で」


「勝手に決めないで」


「今決めないやつなので」


やえはそう言った。


昨日、自分で言った言葉を、また使った。


佐知は少しだけ息を吐いた。


「便利じゃない」


「便利です」


やえは即答した。


弓削は二人の会話を聞いて、よく分からない顔をしていた。


「保留、流行ってるんすか」


「流行ってない」


佐知が言う。


「流行らせます?」


やえが言う。


「やめて」


「やめたものと捨てたものは別なので」


「それは弓削さんのやつ」


「使いやすかったので」


「雑に使わない」


弓削は笑った。


「俺の言葉、雑に使われてる」


「雑な言葉だったので」


やえが返す。


「否定できないっすね」


弓削はスピーカーの音量を少し下げた。


片方だけの音が、さらに小さくなる。


店内の物音が戻ってきた。


ハルエが奥から箱を持ってきた。


「捨てるやつ、ここ入れて」


箱の側面には「処分」と書かれている。


弓削はその箱を見た。


それから、二階から持ってきた紙束を見た。


フライヤーの束。


やえが撮ろうとして、弓削が嫌がったもの。


佐知はその視線に気づいた。


弓削は紙束を一度持ち上げた。


処分箱の上に持っていく。


でも、入れなかった。


紙の角が箱の縁に触れたところで、止まった。


「それ、捨てるの」


ハルエが聞いた。


声は平らだった。


責めても、止めてもいない。


弓削は「うーん」と言った。


長い「うーん」だった。


やえがスマホを出しかけた。


今度は、弓削が何も言わなかった。


やえも、結局撮らなかった。


佐知はその二人の止まり方を見た。


誰も撮らない。


誰も捨てない。


誰も決めない。


それなのに、何もしていないわけではない。


弓削は束の中から一枚だけ抜いた。


赤と黒のフライヤーだった。


端が折れている。


ライブハウスの名前と、いくつかのバンド名が小さく並んでいる。弓削の名前は、やはりすぐには分からない。


弓削はその一枚を、処分箱ではなく、自分の鞄に戻した。


残りの束は、箱の横に置いた。


「今日は捨てない日っすね」


弓削が言った。


ハルエは「そう」とだけ返した。


やえはスマホを持ったまま、フライヤーを撮らなかった。


佐知もスマホを持っていた。


画面は暗い。


撮らなかったスピーカーは、まだ目の前にある。


撮らなかったフライヤーは、弓削の鞄の中に入った。


捨てなかった。


使ったわけでもない。


戻しただけ。


それでも、さっきより少し場所が変わった。


処分箱ではない場所へ移った。


それだけなのに、紙の重さが少し変わったように見えた。


佐知はスマホをポケットに戻した。


撮らないまま戻した。


でも、消したわけではなかった。


撮らなかったことまで、今日の中に残った。


それを残す場所は、まだ分からない。


分からないまま、店の片隅に音だけが残っていた。


少しだけ。

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