第063話 ステナイノテ・三
ケーブルは、思ったより階段で邪魔だった。
抱えていると、足元が見えにくい。黒い束の一部が階段の角に引っかかり、佐知は一度止まった。
「大丈夫っすか」
上から弓削の声がした。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない人、だいたいそう言いますよ」
「今のは本当に大丈夫です」
「二回言うと怪しいっす」
やえが後ろで笑った。
佐知は振り返らなかった。
振り返ると、ケーブルがまた引っかかる。
二階から一階へ下りるだけなのに、荷物があると距離が変わる。いつもの階段が、急に細くなる。壁の剥がれや、手すりの傷が近くなる。
喫茶ポニー跡まで下りると、ハルエがカウンターの前にスペースを作っていた。
「そこ置いて」
ハルエは指で床を示した。
佐知はケーブルを置いた。
どさ、と音がする。
黒い束が床に広がり、先端の銀色の端子がカウンターの脚に当たった。
「蛇みたいですね」
やえが言った。
「蛇なら自分で下りてきてくれるんすけどね」
弓削がスピーカーを抱えて階段から降りてきた。
前に鳴らしたスピーカーとは別の、少し小さい黒い箱だった。片側の角が割れていて、金網の一部が押し込まれている。側面には、剥がれかけた銀色のテープが貼ってあった。
「またスピーカー」
佐知が言うと、弓削は苦笑した。
「捨てられないもの、だいたい黒くて重いんすよ」
「偏ってますね」
「音響機材って、かわいくないんで」
やえはスピーカーの割れた角を見ている。
スマホを出しかけて、少し止めた。
弓削もそれを見たが、何も言わなかった。
佐知はその小さな止まり方を見た。
二階では、やえはフライヤーを撮らなかった。
今も、スピーカーをすぐには撮らない。
やえが何でも撮る人だと思っていた頃なら、気づかなかった止まり方だった。
撮ることにも、撮らないことにも、手前がある。
佐知はそれを、ようやく少しだけ見る。
やえが撮らない。
弓削が止めない。
それだけで、さっきの二階の部屋とは少し違った。
ハルエは延長コードを出してきた。
「鳴る?」
「片方なら、たぶん」
弓削はスピーカーを床に置いた。
「片方だけのやつ、多くないですか」
やえが聞く。
「両方鳴るやつは使うんで、ここに残らないんすよ」
「なるほど」
「納得しないでください。悲しくなるんで」
弓削はケーブルをほどいた。
佐知はその手元を見た。
慣れている。
使っていないと言いながら、指はどこをつなぐか知っている。赤と黒、太い線、細い線。端子の形。ひびの入ったプラグ。
やめたものでも、手が覚えている。
それは少し厄介だ。
忘れたと言えない。
でも、続けているとも言えない。
その間に、手だけが残る。
佐知の指も、カメラの開き方を覚えている。
撮らないのに。
撮れないのに。
それでも、画面を開く順番だけは迷わない。
弓削が小さな音楽プレイヤーを取り出した。前にも見た古いものだ。角が削れ、画面には細い傷が入っている。
「まだ動くんですか」
佐知が聞く。
「まだ動くんすよ」
「しぶとい」
「俺よりしぶといっす」
やえがプレイヤーを覗き込んだ。
「曲、入ってるんですか」
「入ってます」
「自分のバンド?」
弓削はボタンを押す手を止めた。
「それ聞く?」
「聞きました」
「強い」
「違うんですか」
「違うやつにしときます」
弓削は画面を見ながら、何度かボタンを押した。
自分のバンドの曲が入っている。
それを今はかけない。
佐知は、そう受け取った。
本人が言ったわけではない。
でも、弓削の指が曲名を避けるように動いた。
しばらくして、スピーカーから音が出た。
ざ、と短いノイズ。
それから、左側だけに音が立った。
前より少し高い音だった。古いギターのような音が、細く店内を走る。片方だけなので、音は相変わらず偏っている。カウンターの左側にだけ空気の厚みが出る。
ハルエが紙ナプキンを見た。
「鳴った」
「片方ですけど」
「片方でも鳴った」
「牛尾さん、基準低いっすね」
「壊す前の店に高い基準いらないでしょ」
ハルエはあっさり言った。
弓削は笑って、ケーブルを足で少し寄せた。
音があると、店の中の物の見え方が変わる。
前にもそうだった。
カップの白。
メニューのフィルム。
紙ナプキンの曲がった文字。
床に置かれたケーブル。
スピーカーの割れた角。
さっきまでただ散らかっていたものが、準備中のものに見えてくる。
準備中。
その言葉は少しずるい。
終わっていないように見せる。
でも、全部が嘘ではない。
壊れる前に開けとく。
それは、終わったものを戻すことではない。
終わる前に、少し使うことだ。
佐知は自分のスマホに触れた。
ポケットの中で、四角い形が指に当たる。
撮りたい。
思うのは早かった。
けれど、今度はそれだけで終わらなかった。
佐知はスマホを出した。
画面を起こす。
カメラを開く。
スピーカーとケーブルを画面に入れる。
弓削の手元も入る。
ハルエの紙ナプキンも、端に入る。
やえは佐知の手元を見ていた。
何も言わない。
言わないまま、少しだけ体を引いた。画面に入りすぎない位置へ移動したのだと、佐知は気づいた。
その気遣いが、少し気に入らなかった。
でも、ありがたくもあった。
佐知はスマホを少し傾けた。
音は写らない。
でも、片方だけ鳴るスピーカーは写る。
捨てないものの重さも、少しくらいは写るかもしれない。
シャッターボタンは、まだ押していない。
指は、その上に近づいていた。
近づいていることだけで、少し息が浅くなった。
やえが横で息をひそめたのが分かった。
弓削はまだ、ケーブルを見ている。
誰も急かしていない。
急かされていないのに、佐知の指だけが急いでいる。
それが、一番怖かった。




