第062話 ステナイノテ・二
弓削は、フライヤーの箱を部屋の隅へ押しやった。
押しやっただけで、捨てる箱へは入れない。
部屋の中央には、別の段ボール箱が置かれている。そちらには「処分」と書かれていた。文字は弓削のものではなく、ハルエの字に見えた。太くて、迷いがない。
処分。
言葉が強い。
それに比べると、隅へ押されたフライヤーの箱は、名前をつけられないまま置かれている。
佐知は、ケーブルの束を持ち上げた。
思ったより重い。
黒いコードが腕にかかり、服の袖にほこりがついた。
「それ、下でいいっす」
弓削が言った。
「絡まってますけど」
「絡まったままでも、下にあると準備してる感じが出るんで」
「準備ってそういうものですか」
「準備っぽさが大事な時ってないですか」
「ありますか」
やえが聞く。
「あるっすよ。机の上に参考書置いて寝るとか」
「それ、勉強してないやつです」
「準備はしてます」
「弱い」
やえはあっさり切った。
弓削は傷ついた顔をしなかった。
「弱い準備で生きてきたんで」
佐知はケーブルを抱えたまま、部屋を見た。
弱い準備。
その言い方は、少し分かる気がした。
出すつもりのない書類を封筒に入れる。
撮るつもりのないスマホを握る。
行くつもりのない大学のメールを開く。
それは準備かどうか分からない。
でも、何もしていないと言い切るには、手が動いている。
弓削の部屋も、そういう手の跡でできていた。
ギターケースの取っ手だけが光っている。
アンプのつまみは、ひとつだけ違う向きになっている。
ケーブルには、どこにつなぐものか分からない白いテープが貼ってある。
使わないなら、全部同じ箱へ入れればいい。
それをしていないから、物はばらばらに残っている。
残っているというより、止まっている。
途中の姿で、ずっと止まっている。
「これ、全部下ろすんですか」
佐知は聞いた。
「全部は無理っす」
弓削は床の上を見渡した。
「下ろすやつと、捨てるやつと、見なかったことにするやつに分けます」
「見なかったことにするやつ」
「一番多いっす」
やえが部屋の隅を見た。
「フライヤーは?」
弓削は少しだけ笑った。
「見なかったことにするやつ寄りです」
「寄り」
「完全には見なかったことにできないんで」
佐知はフライヤーの箱を見た。
やえが撮ろうとして、弓削が嫌がった紙。
自分の昔の写真をやえに見られた時のことを思い出す。
勝手に見ないで。
いいとか言わないで。
あの時、佐知は怒った。
怒ったあとで、自分でもその写真を見た。
嫌いではなかった。
そのせいで余計に嫌だった。
弓削も、似たようなものを部屋の隅に押しやっている。
佐知はそう思った。
ただし、同じではない。
同じにしてしまうと、また何かを雑に分かった顔になる。
弓削には弓削の、見られたくない形がある。
佐知が勝手に名前をつけるものではない。
そう思っても、目は箱へ行く。
紙の端が、少しだけ曲がっていた。
佐知はケーブルを抱え直した。
「見られたくないんですね」
口に出してから、少し遅かったと思った。
弓削は一瞬だけ目を上げた。
やえも佐知を見た。
佐知は逃げずに、弓削のほうを見た。
弓削は、笑うか迷ったような顔をした。
「まあ、そうっすね」
それだけだった。
否定しない。
ごまかしもしない。
でも、深く話す気もなさそうだった。
そのくらいが、佐知には少しありがたかった。
「見られたくないなら、捨てればいいのに」
やえが言った。
「貝塚さん、それ俺に言います?」
「私も言われそうなので先に言いました」
「防御力高いっすね」
「紙ですけど」
「紙、意外と強いっすよ」
弓削はフライヤーの箱を足で少し寄せた。処分箱から、さらに遠ざける。
「捨てないんですか」
佐知は聞いた。
今度は、さっきより少しだけ慎重に言えた。
弓削はケーブルをほどく手を止めた。
「捨てたほうが部屋は片付くんすけどね」
「じゃあ」
「でも、やめたもんって、捨てたもんとは別じゃないすか」
弓削はさらっと言った。
名言にしようとしていない声だった。
むしろ、床に落ちているケーブルを拾うついでのような言い方だった。
佐知は返事ができなかった。
やめたもの。
捨てたもの。
別。
その三つの言葉が、部屋のほこりの中でゆっくり沈んだ。
佐知は、自分のスマホを思い出した。
写真を撮っていない。
だから、やめた。
やめたなら、捨てればいい。
大学も、写真も、休学延長の書類も、全部どちらかにしなければいけないと思っていた。
続けるのか。
捨てるのか。
戻るのか。
終わるのか。
弓削の部屋には、そのどれでもないものが多すぎた。
使っていないギターケース。
ほどけないケーブル。
片方だけ鳴るスピーカー。
撮られたくないフライヤー。
どれも、やめたものの側にある。
でも、捨てられてはいない。
やえはスマホをいじっていたが、弓削のほうへ向けなかった。
「じゃあ、持ってるだけですか」
やえが聞いた。
「そうっすね」
弓削は少し考えてから言った。
「持ってるだけで、まあまあ邪魔っす」
「邪魔なのに」
「邪魔でも、ないと軽すぎる時あるじゃないすか」
佐知はケーブルの重さを腕に感じた。
邪魔な重さ。
でも、なければ軽すぎるもの。
弓削はフライヤーの箱を見ないまま、またケーブルをほどき始めた。
「下、持ってきます」
佐知は言った。
「助かります」
弓削が答える。
佐知はケーブルを抱えて、部屋を出た。
廊下は暗い。
腕にかかるケーブルは重い。
その重さが、少しだけ分かりやすかった。
軽くするには、手放せばいい。
それだけではないのだと、腕の重さが先に言っていた。
佐知は、そのまま階段へ足を出した。




