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第061話 ステナイノテ・一

丸藤第六ビルの入口に、段ボール箱が二つ積まれていた。


箱の側面には、黒い油性ペンで「下」とだけ書かれている。


下。


それだけでは何も分からない。


でも、誰かがどこかから何かを下ろしていることだけは分かった。


佐知は箱の前で少し止まった。


昨日のやえの学校連絡通知が、まだ頭のどこかに残っている。やえは画面を伏せた。佐知は聞かなかった。聞かなかったことを、まだ正しいとも間違っているとも決められない。


自分のスマホを握る手元を、やえに撮られた。


あの写真は保留になった。


保留。


今決めないやつ。


やえの言い方は軽かったのに、言葉だけが妙に残っている。


佐知は段ボール箱の「下」を見た。


この箱も、今決めないものなのかもしれない。


捨てるのか。


使うのか。


ただ下へ持っていくのか。


喫茶ポニー跡の扉は開いていた。


中ではハルエが、カウンターの上に紙ナプキンを並べていた。前に書いた「開けとく日」の紙ナプキンは、セロハンテープでメニュー立てに貼られている。


文字は少し曲がっていた。


「おはよう」


ハルエが言った。


「こんにちは、じゃないですか」


「まだ午前」


「微妙な時間ですね」


「微妙な日にちょうどいいでしょ」


ハルエは何がちょうどいいのか説明しなかった。


佐知は店内を見回した。


やえはいない。


その代わり、二階から音がした。


ごと。


ぎし。


何かを引きずって、階段にぶつけたような音。


「弓削さんですか」


「たぶん」


「たぶん?」


「泥棒ならもっと静かにやるでしょ」


ハルエは紙ナプキンの角を押さえた。


「上、手伝ってきて」


「私が?」


「若いから」


「その理由、雑じゃないですか」


「雑な理由で動けるうちに動いたほうがいいよ」


ハルエは顔を上げずに言った。


佐知は返す言葉を探したが、階段からまた、ごとん、と音がした。


探している場合ではなさそうだった。


階段を上がる。


二階の廊下は、屋上へ向かう階段より暗かった。使っていない蛍光灯のカバーに、虫の死骸がいくつか透けている。壁には古いポスターを剥がした跡があり、四角く色が違っていた。


奥の空き部屋の扉が開いている。


中から、弓削の声がした。


「いや、そこ持たないで。そこ持つと全部ほどけるんで」


「じゃあどこ持つんですか」


やえの声もした。


いた。


佐知は扉の前で立ち止まった。


部屋の中は、思ったより物が多かった。


古いギターケース。


絡まったケーブル。


黒いスピーカー。


透明の衣装ケース。


折れ曲がった譜面台。


小さなアンプ。


壁際には、紙の束が箱に入っていた。チラシか、フライヤーか、遠目には分からない。赤、黒、黄色。印刷の色だけが古く強い。


弓削は床にしゃがんで、ケーブルをほどいていた。


やえはその横で、黒いギターケースの取っ手を持っている。制服ではない。今日は白いTシャツに、薄い青のシャツを羽織っていた。


昨日の通知の話は、顔には出ていない。


出ていないように見えるだけかもしれない。


「あ、阿久津さん」


弓削が顔を上げた。


「ちょうどいいっす。これ、下まで持ってもらっていいですか」


「何ですか」


「分からないケーブル」


「分からないもの持たせないでください」


「分かるケーブルから順に消えていったんで」


やえがギターケースを少し持ち上げた。


「これ、重いです」


「中身入ってるんですか」


佐知が聞くと、弓削は一瞬だけ手を止めた。


「入ってます」


「ギター?」


「たぶん」


「たぶんって」


「開けてないんすよ、しばらく」


弓削は笑った。


笑い方が、少しだけ軽すぎた。


佐知はギターケースを見た。


黒い合皮の表面に、白い傷がいくつもある。角の金具は錆びていて、留め具の一つは少し曲がっている。取っ手の部分だけ、何度も握られたせいか光っていた。


使っていない。


でも、捨ててはいない。


それは見れば分かる。


やえがスマホを出した。


「撮っていいですか」


「ケースならいいっす」


弓削が言った。


「中は」


「中はだめです」


「何で」


「埃がすごいから」


「埃は撮れます」


「そこじゃない」


弓削はケーブルをほどきながら、少し慌てた。


やえはケースではなく、箱の中の紙束にスマホを向けた。


「これは?」


「それはもっとだめです」


弓削の声が、さっきより早かった。


やえは止まった。


スマホを構えたまま、弓削を見る。


佐知も紙束を見た。


近づくと、それがライブのフライヤーだと分かった。古いバンド名。小さなライブハウスの名前。日付は何年も前。弓削の名前はすぐには見つからないが、どこかにあるのだろうと思った。


紙は少し反っている。


捨てればただの紙だ。


残せば、何かの証拠みたいになる。


弓削は手を伸ばして、フライヤーの束を箱ごと少し自分の側に寄せた。


「それ、撮られると、まだやってる人みたいになるんで」


やえはスマホを下ろした。


「やってないんですか」


「やってないっす」


「じゃあ撮っても、やってない人の紙ですよ」


「そういう正確さ、今いらないっす」


弓削は笑った。


でも、箱を自分の側に寄せた手は、そのままだった。


佐知は、その手を見た。


昨日、自分のスマホを握っていた手を思い出した。


嫌なものを握っている手。


伏せている手。


今の弓削の手は、隠している手だった。


やえはスマホを完全に下ろした。


「じゃあ、撮らないです」


「助かります」


「今だけ」


「こわ」


弓削はそう言って、フライヤーの箱の上に、別のケーブルをそっと置いた。


隠すには雑すぎる。


でも、見えなくはなった。


佐知はその雑な隠し方を見て、何も言わなかった。


二階の空き部屋には、捨てるには重く、使うには古いものばかりがあった。


どれも、手放されていない。


置いてあるだけで、まだ少し場所を取っていた。

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