第060話 ウツラナイラ・四
佐知は、何かいいことを言おうとした。
それがもう、よくなかった。
言おうとした時点で、声の形が外側から借り物になる。
大丈夫。
無理しなくていい。
撮らなくても、あるものはある。
どれも違う。
違うと分かっているのに、口の中に残る。
佐知は膝の上の手を開いたり閉じたりした。
やえはスマホを持ったまま、給水塔の影に座っている。画面はまだ消えていない。喫茶ポニー跡の紙ナプキンが、少し暗くなった画面の中に残っている。
「阿久津さん」
やえが言った。
「はい」
「今、何か言おうとしてますね」
「してない」
「三回目くらいの嘘です」
「数えないで」
「数えたくなるくらい分かりやすいので」
佐知は息を吐いた。
「言っても、たぶん失敗する」
「じゃあ言わないほうがいいです」
「そうなんだけど」
「そうなんだけど、言いたい」
やえは佐知の言葉を先に言った。
佐知は否定できなかった。
やえは少しだけ口の端を上げた。
「年上って大変ですね」
「年上関係ない」
「関係ありますよ。下の人に何か渡したくなるじゃないですか」
「渡せるものがない」
「じゃあ、渡さないでください」
その通りだった。
それでも、佐知の口は動いた。
「撮らなくても」
言った瞬間に、やえの目が少し細くなった。
佐知は止まれなかった。
「あるものは、あると思う」
屋上の風が止まったように感じた。
実際には止まっていない。
フェンスのビニールひもは、まだ細く揺れている。
やえは、しばらく黙っていた。
それから、スマホの画面を自分の膝に伏せた。
「そういうの」
やえは言った。
「知ってます」
佐知は目を伏せた。
失敗した。
分かっていたのに、失敗した。
「ごめん」
「四回目」
「数えてた」
「今のは数えます」
やえの声は怒っているわけではない。
でも、軽くもない。
佐知は何も言えなくなった。
やえは膝の上で伏せたスマホを指で押さえた。
「あるって知ってるから、撮らないんじゃないですか」
その言葉は、小さかった。
佐知は顔を上げた。
やえは佐知を見ていない。
給水塔の脚の向こう、薄く曇った空を見ている。
「ないと思ってたら、撮りますよ。何でも撮る人なので」
「うん」
「またうん」
「聞いたって意味」
「便利ですね、それ」
「便利じゃない」
「便利です。意味をあとで変えられるので」
佐知は返せなかった。
やえは伏せていたスマホをひっくり返した。
画面はもう暗くなっていた。
やえは親指で画面を起こし、カメラを開いた。
「何撮るの」
佐知は聞いた。
「失敗した人」
「やめて」
「顔は撮りません」
「そういう問題じゃない」
「顔じゃなければ、だいたい別物です」
「雑」
「はい」
やえは佐知の顔ではなく、膝の上の手元にスマホを向けた。
佐知は自分の手を見た。
右手がスマホを握っている。
いつの間に出したのか、覚えていなかった。画面は暗い。カメラも開いていない。ただ握っているだけだ。
握っているだけなのに、指に力が入っている。
やえが少し身を乗り出した。
「撮らないのに、持ってる」
「撮らないから、持ってる」
「名言っぽい」
「違う」
「じゃあ、迷言」
「もっと違う」
カシャ、と音がした。
佐知の手元が撮られた。
顔ではない。
でも、嫌だった。
手元は、顔よりごまかしにくいことがある。
「消して」
佐知は言った。
やえは撮った写真を見た。
「嫌です」
「何で」
「嫌な写真なので」
「嫌なら消して」
「阿久津さんが嫌な写真です」
「もっと消して」
「嫌なものって、すぐ消せるとは限らないじゃないですか」
やえは画面を佐知に見せた。
佐知の手が写っている。
膝の上で、黒いスマホを握っている手。
指が少し白くなっている。
背景に、屋上のコンクリートがぼんやり入っている。
ブレている。
いつも通り、少し傾いている。
でも、手だと分かる。
佐知はそれを見て、すぐに目をそらした。
「やっぱり消して」
「保留で」
「保留って何」
「今決めないやつです」
「勝手」
「勝手に撮りましたし」
「最悪」
「悪い人じゃないのが、最悪なときあるんですよね」
やえは、前に自分で言った言葉を軽く返した。
佐知は苦い顔をした。
「それ、ずるい」
「便利だったので」
「便利じゃない」
「便利です」
その時、やえのスマホが短く震えた。
画面の上に通知が出た。
佐知は見ようとしたわけではない。
でも、近かった。
学校連絡。
その文字だけが見えた。
本文までは見えない。見えないうちに、やえが素早く画面を伏せた。
さっきまで佐知の手元を見せていた画面が、屋上の床へ伏せられる。
やえの手は、スマホの上に乗ったままだった。
押さえつけるほど強くはない。
でも、風で飛ばないように置いているだけでもない。
指先が少し白くなっている。
佐知の手元を撮った時のやえの指とは、違う硬さだった。
佐知はその指を見て、さっき自分が撮られた手を思い出した。
嫌なものを握っている手。
伏せている手。
どちらも、画面の近くにある。
音はもう止まっている。
やえは何も言わなかった。
佐知も何も言わなかった。
聞けば、また失敗する。
聞かなくても、もう見えている。
学校の写真はない。
学校の通知は来る。
やえは何でも撮る。
でも、画面ごと伏せるものがある。
その差だけが、やけに大きく見えた。
佐知は自分のスマホを握り直した。
やえが撮った手元の写真は、やえのスマホの中にある。
佐知はそれを消せない。
やえも、学校の通知を消したわけではない。
ただ、伏せた。
屋上の風が戻ってきた。
伏せられた画面の黒い背中に、薄い空だけが映っていた。




