表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/96

第060話 ウツラナイラ・四

佐知は、何かいいことを言おうとした。


それがもう、よくなかった。


言おうとした時点で、声の形が外側から借り物になる。


大丈夫。


無理しなくていい。


撮らなくても、あるものはある。


どれも違う。


違うと分かっているのに、口の中に残る。


佐知は膝の上の手を開いたり閉じたりした。


やえはスマホを持ったまま、給水塔の影に座っている。画面はまだ消えていない。喫茶ポニー跡の紙ナプキンが、少し暗くなった画面の中に残っている。


「阿久津さん」


やえが言った。


「はい」


「今、何か言おうとしてますね」


「してない」


「三回目くらいの嘘です」


「数えないで」


「数えたくなるくらい分かりやすいので」


佐知は息を吐いた。


「言っても、たぶん失敗する」


「じゃあ言わないほうがいいです」


「そうなんだけど」


「そうなんだけど、言いたい」


やえは佐知の言葉を先に言った。


佐知は否定できなかった。


やえは少しだけ口の端を上げた。


「年上って大変ですね」


「年上関係ない」


「関係ありますよ。下の人に何か渡したくなるじゃないですか」


「渡せるものがない」


「じゃあ、渡さないでください」


その通りだった。


それでも、佐知の口は動いた。


「撮らなくても」


言った瞬間に、やえの目が少し細くなった。


佐知は止まれなかった。


「あるものは、あると思う」


屋上の風が止まったように感じた。


実際には止まっていない。


フェンスのビニールひもは、まだ細く揺れている。


やえは、しばらく黙っていた。


それから、スマホの画面を自分の膝に伏せた。


「そういうの」


やえは言った。


「知ってます」


佐知は目を伏せた。


失敗した。


分かっていたのに、失敗した。


「ごめん」


「四回目」


「数えてた」


「今のは数えます」


やえの声は怒っているわけではない。


でも、軽くもない。


佐知は何も言えなくなった。


やえは膝の上で伏せたスマホを指で押さえた。


「あるって知ってるから、撮らないんじゃないですか」


その言葉は、小さかった。


佐知は顔を上げた。


やえは佐知を見ていない。


給水塔の脚の向こう、薄く曇った空を見ている。


「ないと思ってたら、撮りますよ。何でも撮る人なので」


「うん」


「またうん」


「聞いたって意味」


「便利ですね、それ」


「便利じゃない」


「便利です。意味をあとで変えられるので」


佐知は返せなかった。


やえは伏せていたスマホをひっくり返した。


画面はもう暗くなっていた。


やえは親指で画面を起こし、カメラを開いた。


「何撮るの」


佐知は聞いた。


「失敗した人」


「やめて」


「顔は撮りません」


「そういう問題じゃない」


「顔じゃなければ、だいたい別物です」


「雑」


「はい」


やえは佐知の顔ではなく、膝の上の手元にスマホを向けた。


佐知は自分の手を見た。


右手がスマホを握っている。


いつの間に出したのか、覚えていなかった。画面は暗い。カメラも開いていない。ただ握っているだけだ。


握っているだけなのに、指に力が入っている。


やえが少し身を乗り出した。


「撮らないのに、持ってる」


「撮らないから、持ってる」


「名言っぽい」


「違う」


「じゃあ、迷言」


「もっと違う」


カシャ、と音がした。


佐知の手元が撮られた。


顔ではない。


でも、嫌だった。


手元は、顔よりごまかしにくいことがある。


「消して」


佐知は言った。


やえは撮った写真を見た。


「嫌です」


「何で」


「嫌な写真なので」


「嫌なら消して」


「阿久津さんが嫌な写真です」


「もっと消して」


「嫌なものって、すぐ消せるとは限らないじゃないですか」


やえは画面を佐知に見せた。


佐知の手が写っている。


膝の上で、黒いスマホを握っている手。


指が少し白くなっている。


背景に、屋上のコンクリートがぼんやり入っている。


ブレている。


いつも通り、少し傾いている。


でも、手だと分かる。


佐知はそれを見て、すぐに目をそらした。


「やっぱり消して」


「保留で」


「保留って何」


「今決めないやつです」


「勝手」


「勝手に撮りましたし」


「最悪」


「悪い人じゃないのが、最悪なときあるんですよね」


やえは、前に自分で言った言葉を軽く返した。


佐知は苦い顔をした。


「それ、ずるい」


「便利だったので」


「便利じゃない」


「便利です」


その時、やえのスマホが短く震えた。


画面の上に通知が出た。


佐知は見ようとしたわけではない。


でも、近かった。


学校連絡。


その文字だけが見えた。


本文までは見えない。見えないうちに、やえが素早く画面を伏せた。


さっきまで佐知の手元を見せていた画面が、屋上の床へ伏せられる。


やえの手は、スマホの上に乗ったままだった。


押さえつけるほど強くはない。


でも、風で飛ばないように置いているだけでもない。


指先が少し白くなっている。


佐知の手元を撮った時のやえの指とは、違う硬さだった。


佐知はその指を見て、さっき自分が撮られた手を思い出した。


嫌なものを握っている手。


伏せている手。


どちらも、画面の近くにある。


音はもう止まっている。


やえは何も言わなかった。


佐知も何も言わなかった。


聞けば、また失敗する。


聞かなくても、もう見えている。


学校の写真はない。


学校の通知は来る。


やえは何でも撮る。


でも、画面ごと伏せるものがある。


その差だけが、やけに大きく見えた。


佐知は自分のスマホを握り直した。


やえが撮った手元の写真は、やえのスマホの中にある。


佐知はそれを消せない。


やえも、学校の通知を消したわけではない。


ただ、伏せた。


屋上の風が戻ってきた。


伏せられた画面の黒い背中に、薄い空だけが映っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ