第059話 ウツラナイラ・三
「撮るものないです」
やえの言葉は、屋上の風に流れず、そのまま残った。
佐知は、そこでやめればよかった。
やめたほうがいいと分かっていた。
分かっていることと、やめられることは違う。
佐知はやえのスマホを見た。
傾いた募金箱の写真。
ガムの棚。
コンビニの床。
その次に、やえの親指が触れた写真は、喫茶ポニー跡の紙ナプキンだった。さらに次は、屋上のフェンス。その次は、駅前のベンチ。
学校がない。
それはもう聞いた。
では、他には。
佐知の中で、言葉が形になる。
形になった時点で、少し遅い。
「家も?」
言ってから、佐知はやえの顔を見た。
やえはすぐには答えなかった。
スマホの画面が、フェンスの影を映している。写真ではなく、光の反射だ。やえの指が止まっているせいで、画面は動かない。
「阿久津さん」
やえが言った。
「はい」
「今日、調子乗ってます?」
「乗ってない」
「じゃあ、足元見えてないほうですか」
佐知は言葉に詰まった。
怒られたほうがまだ楽だ。
やえは怒っているのとは少し違う。
あきれている。
それも、少し疲れたあきれ方だった。
「ごめん」
「二回目です」
「うん」
「謝ればいいと思ってる人ですか」
「違う」
「違うなら、聞く前に止まってくださいよ」
佐知は、手のひらを膝の上で握った。
正しい。
それは正しい。
でも、正しいと言われることが痛いのと同じくらい、正しいことを言ってしまった自分も嫌だった。
「家はもっとないです」
やえが言った。
声は小さかった。
佐知はやえを見た。
やえは佐知を見ていない。
フェンスの向こう、隣のビルの室外機を見ていた。室外機は動いていない。羽根の部分に白っぽいほこりがついている。
「もっと?」
佐知は聞き返してしまった。
やえは少し笑った。
笑ったというより、口の端だけを雑に動かした。
「学校はまだ、学校って名前があるじゃないですか」
「うん」
「家は、家って言うと、ちょっと強いので」
佐知は返事をしなかった。
やえの言葉が、どこまで本気で、どこから冗談なのか分からない。
分からないまま、聞いている。
「別に、普通ですよ」
やえは言った。
「すごい何かがあるとかじゃないです。殴られてるとか、追い出されたとか、そういうのじゃないです」
「うん」
やえの指が、画面の端で止まった。
フェンスの影が、手の甲で揺れた。
「聞いたって顔じゃないです」
「どういう顔」
「役に立ちたいけど役に立てない顔」
佐知は少し息を止めた。
当たっている。
当てられると、言い返しにくい。
「役に立ちたいわけじゃない」
「じゃあ何ですか」
「分からない」
「分からないで聞くの、けっこう危ないですよ」
「うん」
「またうん」
やえは膝を抱え直した。
スマホは膝の上に伏せていない。
画面は上を向いている。
でも、写真はもう進まない。
「家の写真、ゼロなの」
佐知は聞いた。
今度は、先に謝る準備をしながら聞いている。
それが余計に駄目だと、自分でも分かる。
やえは画面を見た。
「ゼロではないです」
「あるんだ」
「手とか、床とか、皿とか、そういうのは」
やえは少しだけ画面を動かした。
一瞬だけ、白い皿の端が出た。
その次に、暗い廊下の床らしいものが出た。
その次は、誰かの手首だった。誰の手かは分からない。ブレていて、袖口だけが妙にはっきりしている。
すぐに画面は戻された。
見せたというより、見えてしまったくらいの速さだった。
佐知は、それ以上覗こうとしなかった。
覗いたら、何かを知った顔をしてしまう。
知った顔ほど、信用できないものはない。
「家じゃないの」
「家じゃないです」
「床は床?」
「床は床です」
「皿は皿」
「皿は皿」
佐知は、さっきの学校の会話を思い出した。
机と椅子。
床と壁。
門。
全部、名前を細かくしていけば、場所ではなくなる。
やえは、場所を細かくほどいているのかもしれない。
学校を、学校にしない。
家を、家にしない。
撮ってもいいものだけ、小さく切り出す。
そうすれば、画面の中には皿が残る。
床が残る。
手首が残る。
でも、帰る場所は残らない。
残っていないことにできる。
佐知はそれを考えて、すぐに言葉にするのをやめた。
言葉にしたら、また正論みたいになる。
「撮ったら」
やえが先に言った。
佐知は顔を上げた。
やえは画面を見ている。
「撮ったら、あるってことになるじゃないですか」
風が少し強くなった。
フェンスに絡まったビニールひもが鳴った。
佐知は、その音を聞きながら、やえの言葉を頭の中で繰り返した。
撮ったら、あるってことになる。
佐知はずっと、撮ったら終わる気がして怖かった。
やえは、撮ったらあることになるのが嫌なのかもしれない。
終わらせるために撮るもの。
あることにしないために撮らないもの。
同じスマホの中に、両方がある。
「あるでしょ」
佐知は言いかけた。
言いかけて、止めた。
やえは佐知を見た。
「今、言いかけましたね」
「言ってない」
「言いかけた顔しました」
「顔で決めないで」
「阿久津さん、顔に出ます」
「出ない」
「出ます」
佐知は返事をしなかった。
やえはスマホを持ち直した。
画面には、喫茶ポニー跡の紙ナプキンがまだ映っている。
家でも学校でもない。
壊れる前提の、借り物みたいな場所。
そこだけが、やえのスマホには何枚もある。
佐知は何か言わなければと思った。
言わないほうがいいとも思った。
二つが同時に来て、どちらにも動けない。
やえは画面を閉じなかった。
閉じないまま、ただ持っていた。
閉じていないのに、見せているわけでもなかった。
撮ったらあることになるものを、撮らずにいる手で。




