第058話 ウツラナイラ・二
やえのスマホには、屋上が何度も入っていた。
同じ給水塔。
同じフェンス。
同じ排水口。
でも、写真は同じではなかった。
斜めだったり、近すぎたり、影が入りすぎていたりする。指の端が写っているものもある。スマホのレンズに何かついていたのか、全体が少し白く曇っている写真もあった。
佐知なら消す。
そう思ってから、佐知は目をそらした。
消す、と思うのが早すぎる。
やえは消していない。
やえの中では、それで終わっているのかもしれない。
撮ったから、もういい。
前に聞いた言葉が、画面の上に薄く重なった。
「まだ見ます?」
やえが聞いた。
「いいの」
「見せてるので」
「急に嫌がるかと思って」
「嫌になったら閉じます」
やえはそう言って、スマホを佐知のほうへ少し寄せた。
佐知は受け取らなかった。
手に持つと、もっと踏み込むことになる気がした。
画面だけを見る。
やえの親指が写真を送る。
喫茶ポニー跡のカウンター。
カップの底。
紙ナプキンの束。
ハルエのふきん。
弓削が置いた古いスピーカーの角。
駅前のポール。
コンビニの前の、誰かの傘。
雨が降っていない日の傘。
「多いね」
佐知はまた言った。
「阿久津さん、それ三回目くらいです」
「他に言い方がない」
「豊富ですね、とか」
「豊富ではない」
「失礼」
やえは口だけで謝った。
「本人が一番分かってるでしょ」
「分かってます」
やえは軽く言った。
軽い声なのに、指は少し早い。
見せたいのか、見せたくないのか分からない速さだった。
写真はどんどん流れていく。
屋上。
喫茶ポニー跡。
駅前。
道路。
自販機。
コンビニ。
また屋上。
佐知は、あるはずのものを探している自分に気づいた。
あるはず、というのも変だ。
やえが何を撮るかは、やえが決める。
佐知が勝手に、そこにあると思っているだけだ。
でも、なかった。
教室。
廊下。
黒板。
靴箱。
校門。
窓から見える校庭。
そういうものが、出てこない。
制服の袖やスカートの端は、たまに写っている。
でも、それは学校ではない。
学校を撮った写真ではなかった。
体育館の床もない。
窓際のカーテンもない。
黒板消しの粉も、机に貼られた古いシールも、廊下の端に置かれた三角コーンもない。
佐知が高校にいた頃、見ようと思わなくても視界に入っていたものが、やえの画面には出てこない。
文化センターの記憶が戻ったせいか、佐知は余計なものまで思い出した。
放課後の廊下。
写真部の部室。
借り物のカメラ。
プリントの束。
そういうものを見たくない時期が、自分にもあった。
それでも、やえのスマホの中にないこととは、同じではない。
同じにしたら、たぶん雑になる。
佐知は自分の口が動く前に、少し息を止めた。
聞くな。
そう思った。
聞かなければ、まだ見ていないことにできる。
でも、画面はもう見ている。
「学校の写真、ないね」
言ってから、佐知は自分の声が思ったより乾いていたことに気づいた。
やえの親指が止まった。
画面には、コンビニのレジ横の募金箱が写っていた。
透明の箱の中に、小銭が少し入っている。やえの写真は相変わらず傾いていて、募金箱より横のガムの棚のほうが大きい。
やえは画面を見たまま言った。
「ないですね」
佐知はやえの横顔を見た。
「撮らないの」
「撮るものないです」
「教室とか」
「机と椅子です」
「廊下とか」
「床と壁です」
「靴箱」
「靴です」
「校門」
「門です」
佐知は黙った。
やえは淡々と答えた。
ふざけているようにも聞こえる。
でも、いつものふざけ方より平らだった。
「全部そう言えるじゃん」
佐知は言った。
「言えますよ」
「屋上だって、床とフェンスと給水塔でしょ」
「屋上は屋上です」
「学校も学校じゃないの」
やえはスマホを少し下げた。
画面が佐知から遠ざかる。
それだけで、佐知は踏み込みすぎたと分かった。
分かったけれど、言葉を戻せない。
やえの指は、画面の縁にかかったままだった。
親指の爪が少し欠けている。
その指は、さっきまで排水口や募金箱や紙ナプキンを次々送っていた。
今は止まっている。
止まった画面の中に学校はない。
画面の外に、制服だけがある。
それが一番、変だった。
写真の中に入っていないものほど、目の前では濃く見える。
やえの制服は、屋上の風の中で普通に揺れている。
普通に揺れているのに、画面の中では学校にならない。
その普通さが、かえって目についた。
見なかったことには、もうできない。
やえはフェンスのほうを見た。
「学校って、撮ると学校になるじゃないですか」
「もう学校でしょ」
「そういうの、正論っぽくて嫌です」
佐知は口を閉じた。
正論のつもりはなかった。
でも、たぶん正論に聞こえた。
自分が言われたら嫌な言い方を、今している。
「ごめん」
佐知は言った。
やえは返事をしなかった。
写真の画面を閉じることもしない。
ただ、親指で画面の端をこすっていた。
「別に」
少ししてから、やえが言った。
「学校の写真がないと、変ですか」
「変っていうか」
「高校生っぽくない?」
「そういう言い方はしてない」
「してないけど、そういう感じしました」
佐知は言い返せなかった。
やえの制服の袖口が、風で少し揺れている。
学校のものは、やえの体についている。
でも、スマホの中には入っていない。
「撮るものないです」
やえはもう一度言った。
今度は、逃げるための言葉だと分かった。
分かったのに、佐知はそこから先へ行く言葉を持っていなかった。
画面にはまだ、傾いた募金箱が残っていた。
募金箱の横で、ガムの棚だけが妙にはっきり写っていた。




