第057話 ウツラナイラ・一
佐知が丸藤第六ビルに着いたのは、午前十一時前だった。
昼には少し早い。
コンビニの弁当棚には、まだ同じ種類の弁当が縦にそろっていた。駅前の歩道は、昼休みに出てくる人たちで混む前の、妙に空いた時間だった。
この時間に来るつもりはなかった。
家にいると、文具店で買った新しい封筒が目に入った。鞄に入れ直しても、存在は消えない。机の上に置けば置いたで、白い面がこちらを向く。
休学延長の書類は、まだ出していない。
小森谷先生が覚えていなかった言葉も、まだ消えていない。
どちらも、佐知が持っている。
持っているだけで、進まない。
それで外に出た。
駅へ向かう途中で、足が勝手に北口へ流れた。大学へ行くわけでも、文化センターへ戻るわけでもない。
丸藤第六ビルは、今日も古かった。
解体告知の紙は、端が少し浮いている。透明テープの下に細いほこりが入っていた。昨日もそうだったかもしれないし、今日そうなったのかもしれない。
佐知は入口の前で一度立ち止まった。
早すぎる。
早く来る理由がない。
理由がないのに来ることには、もう少し慣れてきている。
喫茶ポニー跡の扉は半分だけ開いていた。
中ではハルエが、カウンターの上の皿を重ねていた。皿同士がこすれて、乾いた音がした。
「早いね」
ハルエが顔を上げずに言った。
佐知は入口で靴の先を止めた。
「早かったですか」
「昼前だからね」
「ですよね」
「上、いるよ」
佐知は顔を上げた。
「もう?」
「もう」
ハルエは皿を重ね終えて、ふきんでカウンターを拭いた。
それ以上は言わない。
やえがなぜ早いのか。
学校はどうしたのか。
そういうことを、ハルエは言わない。
佐知も聞かなかった。
聞かなかったことが優しさかどうかは、まだ分からない。前にも同じように聞きかけて、やめて、やえに刺された。
そういうとこですよね。
その声は、今も少し残っている。
佐知は「上、行きます」とだけ言った。
「うん」
ハルエはふきんを絞った。
「転ばないでね」
「子どもじゃないです」
「昼前の階段は、案外すべるから」
「時間関係あります?」
「気分」
ハルエは平たい声で言った。
佐知は返す言葉を探すのをやめて、階段へ向かった。
階段の空気は少し涼しい。
午前中のビルは、夕方のビルとは違うにおいがした。夜の湿気がまだ完全には抜けていない。手すりはぬるくなく、乾いていた。
屋上の扉を押すと、風が先に入ってきた。
やえは給水塔の近くにいた。
制服だった。
上に薄いパーカーを羽織っている。鞄はフェンスにもたれている。学校指定のものかどうか、佐知には分からない。ただ、学生の鞄という形をしていた。
やえはしゃがみ込んで、排水口の横を撮っていた。
カシャ、と音がした。
シャッター音は、午前中の屋上では少し大きい。
「早いね」
佐知はハルエと同じことを言った。
やえはスマホを下ろさずに答えた。
「二回目です、それ」
「誰に言われたの」
「ハルエさん」
「同じこと言った」
「同じような理由で来たんじゃないですか」
「どんな理由」
やえは排水口をもう一枚撮ってから、ようやく振り向いた。
「説明できない理由」
「説明になってない」
「午前中に屋上来る理由、だいたい説明できないですよ」
「何人見たの」
「二人」
「少ない」
「阿久津さんと私です」
やえは立ち上がった。
スカートの裾についた細い砂を、手で払う。その手にも、少し黒い汚れがついた。
「何撮ってたの」
「排水口です」
「なんで」
「丸いので」
「丸いから撮るの」
「丸いものって、油断すると撮られないじゃないですか」
「何その理屈」
「四角いものは、紙とか窓とか画面とかで偉そうに残るんですけど、丸いものは転がるので」
佐知は排水口を見た。
丸い。
錆びている。
葉っぱが一枚、網目に引っかかっている。
撮るほどかと言われれば、撮るほどではない。
やえが撮るものは、たいていそうだ。
やえはスマホを操作して、佐知のほうへ画面を向けた。
「見ます?」
「何を」
「今日の丸いもの」
「丸いものだけ集めたの?」
「いえ、今思いつきました」
画面には、排水口が写っていた。
少し斜めで、影が中途半端に入っている。葉っぱの端が切れている。よく撮れているかどうかで言えば、よくはない。
でも、排水口だと分かる。
次の写真は、ペットボトルのキャップだった。赤いキャップがコンクリートの上に落ちている。次は、輪ゴム。次は、誰かが落としたガムの銀紙。次は、フェンスに絡まった細いビニールひも。
やえは親指でどんどん送っていく。
「多い」
佐知は言った。
「多いです」
「今日だけ?」
「今日だけじゃないです」
「でしょうね」
画面の中で、屋上の隅が何度も流れた。
給水塔の脚。
フェンスの継ぎ目。
ひび割れたコンクリート。
ふきんの端。
喫茶ポニー跡のカウンター。
アイスの棒。
ペコッとへこんだペットボトル。
消し忘れたような写真が、消されずに並んでいる。
やえは自慢するでもなく、恥ずかしがるでもなく見せた。
「容量、足りるの」
「足りなくなったら、その時考えます」
「考えなさそう」
「考えたふりはします」
佐知は画面を見ていた。
どうでもいい、と言ってしまいそうな写真ばかりだった。
でも、他の言い方がすぐに出てこない。
大事そうに撮っているわけではない。
きれいに撮ろうとしているわけでもない。
残さなければいけないという力もない。
ただ、あったから撮った。
そう見える。
「阿久津さん、今ちょっと失礼な顔してます」
やえが言った。
佐知は目をそらした。
「してない」
「採点してました?」
「してない」
「はい、二回否定した」
「してないものはしてない」
「じゃあ、何点ですか」
「聞いてるじゃん」
やえは笑った。
笑ったまま、また画面を送る。
写真が増える。
屋上のもの。
喫茶ポニー跡のもの。
駅前のもの。
コンビニの前のもの。
道路脇の雑草。
白線の欠けたところ。
自販機の取り出し口。
どれも、撮らなくても困らないものだった。
困らないものばかりが、やえのスマホの中で困るほど残っていた。
佐知はふと、画面ではなく、やえの制服の袖口を見た。
袖口には、細いほつれがある。
学校の時間ではないか。
そう思った。
でも、聞かなかった。
やえは次の写真を出した。
それは、屋上の床に落ちた小さな石だった。
「これ、昨日の石です」
「昨日の石って分かるの」
「分かりません」
「じゃあ何で言ったの」
「昨日っぽいので」
佐知は少しだけ息を吐いた。
やえのカメラロールには、そういう写真が大量にあった。
大量にあるのに、どこかが空いている気がした。
その空き方を、佐知はまだ見ないようにした。




