第056話 オボエテナ・四
佐知は文化センターから駅へ戻らなかった。
南口から北口へ抜ける連絡通路を歩いた。
文具店で買った封筒は、鞄の中でまだきれいなままだ。角も折れていない。買った意味は、今のところない。
通路の床は、靴の底で少し鳴った。壁の広告は何枚も並んでいて、どれも明るい顔をしている。佐知はその前を、封筒の角が鞄の中で当たる感触だけを気にしながら歩いた。
意味のない封筒。
送られていない書類。
覚えていない言葉。
そういうものばかりが、鞄の中と頭の中に増えていく。
佐知は丸藤第六ビルへ向かった。
行かない理由を探す気力もなかった。
北口のコンビニの前を通る。昨日のアイスの代金を払うことを思い出した。財布はある。やえがいるかどうかは分からない。いなかったら、払えない。
払えないなら、また理由が残る。
佐知はコンビニへ入らなかった。
丸藤第六ビルの入口には、解体告知が貼られたままだった。透明テープの気泡も、外壁の汚れも、昨日と同じに見える。
同じに見えるものが、本当に同じかどうかは分からない。
文化センターのチラシも、毎年続いていると言われた。
続いているものは、少しずつ中身が変わる。
同じ名前のまま、違うものになる。
喫茶ポニー跡の扉は開いていた。
ハルエはいなかった。
カウンターの上に、乾いたふきんが一枚置いてある。端に小さなメモが挟まっていた。
上。
それだけだった。
ハルエの字だ。
佐知はメモを見て、少しだけ息を吐いた。
言葉が短すぎる。
でも、足りている。
階段を上がる。
手すりは今日も生ぬるい。踊り場の空気はこもっている。屋上の扉の向こうから、風の音が少し聞こえた。
扉を開けると、やえが給水塔の影にいた。
今日はアイスを持っていない。
スマホも手にしていない。
膝の上に両手を置いて、ただ座っている。制服ではない。薄いグレーのシャツに、黒い短パン。靴下の片方が少しずれている。
やえは佐知を見ると、眉を少し上げた。
「財布あります?」
最初の一言がそれだった。
佐知は少しだけ遅れて答えた。
「ある」
「じゃあ昨日のアイス代」
「今?」
「忘れる前に」
佐知は財布を出した。
百円玉と十円玉をいくつか手のひらに出す。
「いくら」
「覚えてないです」
「払えないじゃん」
「じゃあ百円で」
「適当」
「アイスも適当だったので」
佐知は百円玉をやえに渡した。
やえはそれを受け取って、ポケットに入れた。
「領収書いります?」
「いらない」
「経費にならないですか」
「何の」
「屋上費」
「ない」
やえは「ないですか」と言って、少しだけ笑った。
佐知は笑わなかった。
やえも、それ以上ふざけなかった。
百円玉がやえのポケットの中で小さく鳴った。
それだけで、昨日のアイスのことは一応終わった。
やえはポケットの上から百円玉の位置を確かめるように一度押さえた。布の下で丸い形が少し浮く。佐知の手のひらには、硬貨を渡したあとの金属の冷たさがまだ残っていた。
終わるものは、こんなに簡単に終わる。
終わらないものは、何年も残る。
百円玉一枚で済まないものばかり残る。
本当に。
風が給水塔の脚の間を通る。
フェンスの影が、昨日より少し違う角度で落ちている。佐知はそれを見たが、スマホは出さなかった。
今日は撮れない日かどうかも、考えなかった。
やえが佐知の顔を見た。
「何かありました?」
佐知は少し黙った。
文化センター。
チラシ。
小森谷先生。
覚えていない。
悪い意味ではなかった。
それでも、ごめん。
言葉はたくさんあった。
でも、やえに渡せる形になっているものは少なかった。
「覚えてなかった」
佐知はそれだけ言った。
やえはすぐに聞き返さなかった。
それが少し助かった。
しばらくしてから、やえは言った。
「誰が」
「先生」
「前のほうが、の人ですか」
佐知はうなずいた。
やえは膝の上の手を少し握った。
「会ったんですか」
「文化センターで」
「へえ」
「へえって」
「いや、すごい偶然だなと思って」
「私も思った」
佐知は給水塔の影に座った。
やえとは少し距離を空けた。
「傘立ての写真は覚えてた」
「はい」
「でも、その言葉は覚えてなかった」
やえはフェンスのほうを見た。
「悪い人でした?」
「全然」
「じゃあ最悪ですね」
佐知はやえを見た。
やえはいつもの調子ではなかった。
軽い声だけれど、雑ではない。
「悪い人じゃないのが、最悪なときありますよ」
やえはそう言った。
佐知は返事ができなかった。
それは、やえの言葉でもある気がした。
誰かの話。
学校の話。
家の話。
終わらせたくなくて撮らないものの話。
聞きたい気持ちはあった。
でも、今聞くのは違うと思った。
佐知は膝の上で指を組んだ。
「怒る相手がいなくなった」
「いなくなりますよね」
「知ってるみたいに言う」
「知らないです」
「嘘」
「じゃあ、ちょっと知ってます」
やえはあっさり言い直した。
佐知は少しだけ息を吐いた。
文化センターの前で、小森谷先生は本当に覚えていなかった。
それなのに、佐知の中の声は消えない。
前のほうが。
阿久津さんらしかったね。
その声は、先生の声の形をしていた。
でも、今は少し違う。
先生本人は覚えていない。
それなのに、声だけは佐知の中で鳴っていた。
佐知はフェンスの影を見た。
網目の影が、手の甲に薄く落ちていた。
影の線はまっすぐではなかった。手を少し動かすだけで、網目は伸びたり縮んだりする。佐知は指を開き、また閉じた。影はそのたびに、手の上で別の形になった。
外側から言われた声だと思っていた。
今も、最初は外側からだったのだと思う。
でも、何年も繰り返していたのは、たぶん自分のほうだ。
自分で、撮る前に言っていた。
これは前よりいいか。
これは阿久津さんらしいか。
これは違うか。
先生が覚えていなかった言葉を、佐知はまだ覚えている。
「私の中では、まだ残ってた」
佐知は小さく言った。
やえは聞こえていたのに、聞き返さなかった。
屋上の風が、二人の間を通った。
佐知はスマホを出さなかった。
出さないまま、フェンスの影を見ていた。
それが何なのか、まだうまく腹に落ちない。
でも、落ちないまま、そこにあった。




