第055話 オボエテナ・三
小森谷先生は、すぐに答えなかった。
怒った顔ではない。
困った顔でもない。
ただ、記憶を探す顔だった。
佐知はその顔を見て、もう半分分かってしまった。
覚えていない。
そういう顔だ。
先生は少しだけ目を細めた。
クリアファイルの角を、親指で一度押さえる。
「ごめん」
その一言で、佐知の指先が冷えた。
「はっきりは、覚えてない」
文化センターの前を、自転車が一台通り過ぎた。
ベルは鳴らない。
タイヤの音だけが、歩道の上を細く走った。
自動ドアの内側から、冷房の匂いが少し漏れていた。外の熱い空気と混ざって、ガラスの前だけ変に湿っている。掲示板の金具は陽に当たって、細く光っていた。
佐知は何も言えなかった。
先生はクリアファイルを胸の前で持ち直した。
「言ったかもしれない」
佐知は顔を上げた。
「かも」
自分の声が思ったより硬かった。
小森谷先生はうなずいた。
「うん。言いそうな気はする。私、あの頃、そういう言い方してたと思う」
「覚えてないんですよね」
「覚えてない」
先生はごまかさなかった。
ごまかしてくれたほうが、怒りやすかったかもしれない。
「でも、阿久津さんに言ったかどうかは覚えてない。ごめんね」
ごめんね。
軽くはなかった。
でも、佐知が何年も持っていた重さと同じではなかった。
それが嫌だった。
佐知は、その一言を何度も思い出してきた。
写真を撮る前。
撮った写真を見る前。
誰かに見せる前。
スマホのカメラを閉じる時。
喫茶ポニー跡の写真を削除した時。
いつも同じ重さで戻ってきたわけではない。軽い日もあった。ほとんど聞こえない日もあった。でも、なくなった日はなかった。
その言葉を言った人が、同じ重さで持っていてくれたわけではない。
そのことが、今さら分かった。
分かっただけで、楽にはならない。
全然。
小森谷先生は、悪い人の顔をしていない。
平気な顔でも、開き直った顔でもない。
ただ、本当に覚えていない人の顔だった。
「悪い意味じゃなかったと思う」
先生は言った。
佐知の胸の中で、何かが小さく反応した。
悪い意味じゃない。
それは分かっている。
分かっているから、ずっと面倒だった。
「阿久津さんの写真、私は好きだったよ」
先生は続けた。
「傘立てもそうだし、廊下とか、窓の隅とか、そういうの。派手じゃないけど、ちゃんと見てる写真だった」
佐知はチラシのガラスを見た。
自分の顔と、写真展の文字が重なっている。
ちゃんと見てる写真。
それも、たぶん褒め言葉だ。
今言われても、うれしくなりきれない。
うれしくなりきれない自分にも、腹が立った。
好きだった先生に、好きだったと言われている。
昔なら、帰りの電車で何度も思い出したかもしれない。
家に帰ってから、カメラの中の写真を見返したかもしれない。
でも今は、言葉の奥に次の言葉を探してしまう。
好きだった。
でも。
前のほうが。
阿久津さんらしい。
まだ言われていない言葉まで、自分で勝手に並べてしまう。
「前のほうがって」
佐知は言った。
「言われてから、前って何だろうって、ずっと考えてました」
小森谷先生の表情が変わった。
大げさではない。
でも、少しだけ痛そうな顔になった。
「そうだったんだ」
「はい」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃ」
佐知は言いかけて、止まった。
本当にそうか。
謝ってほしくなかったのか。
謝ってほしかったのか。
覚えていてほしかったのか。
覚えていないなら、傷つけたことになるのか。
佐知には分からなかった。
「謝ってほしいわけじゃないです」
一応、最後まで言った。
言ったあとで、少し嘘だと思った。
小森谷先生は責めなかった。
「それでも、ごめん」
先生はそう言った。
悪人ではない。
そのことが、邪魔だった。
先生が悪い人なら、もっと簡単だった。
佐知はクリアファイルの角を握った。
透明な角は少し湿っていた。手に汗をかいていることに、そこで気づいた。先生の持つファイルにも同じような透明の角があり、光を受けて白く反っている。文化センターのガラス戸に、自分のぼやけた顔が小さく映った。
その顔も、怒っているようには見えなかった。
どこにも、佐知が殴れる壁がなかった。
チラシの端を留めている画鋲だけが、きちんと四つ角を押さえている。紙はその間で少し波打ち、写真展の文字も、ガラスの反射でところどころ薄くなっていた。
「阿久津さん」
先生が静かに呼んだ。
「はい」
「今、写真が苦しいなら、無理に戻らなくていいと思う」
佐知は少し息を止めた。
「戻るとか、そういう話じゃないです」
強く言いすぎた。
先生はうなずいた。
「うん。ごめん。今のも、違ったかもしれない」
また謝られた。
そのたびに、怒る場所がなくなる。
佐知は自分の手元を見た。
鞄の中には、文具店で買った封筒がある。新しい封筒。何も送られていない封筒。角が折れないようにノートの間に挟んだだけのもの。
何か進んだ気がしただけのもの。
先生は言った。
「阿久津さんの写真、私は覚えてるよ。全部じゃないけど、傘立ては覚えてる」
「言葉は覚えてないのに」
言ってしまった。
先生は少しだけ目を伏せた。
「うん」
その「うん」は、やさしくも、冷たくもなかった。
本当のことを、そのまま置いただけだった。
佐知はそれ以上、何も聞けなかった。
小森谷先生は、これから打ち合わせがあるらしかった。時計を見て、でも急かすようにはしなかった。
「引き止めてごめん」
佐知が言うと、先生は首を横に振った。
「会えてよかった」
その言葉も、たぶん本当だった。
本当だから、困る。
先生は文化センターの中へ入っていった。
自動ドアが開く。
冷たい空気が漏れる。
閉まる。
ドアの向こうで、先生の背中はすぐに人の影に混ざった。クリアファイルの透明な角だけが一瞬光って、それも見えなくなった。
佐知は掲示板の前に残った。
怒る相手が、いなくなった。
先生は中にいる。
でも、佐知が怒りたかった相手は、もうそこにはいなかった。
写真展のチラシだけが、ガラスの向こうで少し波打っていた。




