第054話 オボエテナ・二
青信号が赤に戻っても、佐知は掲示板の前にいた。
写真展のチラシ。
高校生。
講評会。
その文字だけで、体の奥が古い場所へ引っ張られる。
文化センターの入口では、自動ドアが開いたり閉じたりしている。中から冷房の空気が少し漏れて、すぐ外の熱に混ざった。受付の近くに置かれた鉢植えの葉が、扉の風でわずかに揺れている。
佐知は帰ろうとした。
帰るなら今だ。
チラシは見た。
足も止まった。
それで十分だ。
十分だと思った時、後ろから声がした。
「阿久津さん?」
佐知は肩を小さく上げた。
その呼び方を、もう何年も聞いていない気がした。
振り返ると、小森谷先生が立っていた。
記憶の中より少し髪が短い。眼鏡の形も変わっている。手にはクリアファイルと、文化センターの封筒を持っていた。服は白いブラウスに薄い紺のカーディガンで、高校の職員室にいた頃より少しだけ柔らかく見えた。
でも、声はほとんど変わっていなかった。
「やっぱり阿久津さんだ」
小森谷先生は普通に笑った。
普通に。
それが、まず困った。
「お久しぶりです」
佐知は頭を下げた。
自分でも、声が硬いと思った。
「久しぶり。何年ぶりかな。卒業してから会ってないよね」
「はい」
「元気にしてた?」
この質問が一番困る。
元気ではない。
でも、元気ではないと答えるほどの関係でもない。
「まあ」
佐知は曖昧に言った。
小森谷先生は、その曖昧さを責めなかった。
「文化センター、何か用事?」
「通っただけです」
「そっか。私、写真展の打ち合わせ。今も少し手伝ってて」
先生は掲示板のチラシを見た。
「これね。毎年続いてるんだよ」
「そうなんですね」
「阿久津さんも出したよね。傘立ての」
覚えていた。
佐知は息を止めた。
傘立ての写真。
小森谷先生は覚えている。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「あれ、よかったよね」
先生は懐かしそうに言った。
軽い声だった。
本当に懐かしいものを見つけた時の声だ。
「あの頃、阿久津さん、よく校舎の端っことか撮ってた。誰も見ないところ、よく見つけてたよね」
佐知は返事が遅れた。
それは、悪くない言葉だった。
むしろ、昔ならうれしかったかもしれない。
今でも、ほんの少し、うれしくなりそうだった。
だから苦しい。
「写真、まだ撮ってる?」
小森谷先生が聞いた。
先生は、本当に世間話のつもりで聞いている顔だった。
元気にしてた。
大学生。
写真、まだ撮ってる。
順番としては自然だ。
昔の生徒に会って、昔やっていたことを聞く。吹奏楽部なら楽器、陸上部なら走っているか、写真部なら写真。そこに深い意味はない。
深い意味はないのに、佐知の胸だけが勝手に深く沈む。
まだ、という言葉がいけない。
まだ続けている人と、もうやめた人を分ける言葉みたいに聞こえる。
佐知は自分がどちら側なのか、すぐに決められなかった。
佐知は掲示板のガラスに映る自分の顔を見た。
まだ。
その言葉は、続いているものに使う。
佐知の写真は、続いているのか。
撮れないままでも、続いていると言えるのか。
最近削除した項目に残っている喫茶ポニー跡。
やえのスマホにある屋上。
暗くした画面に映った自分の顔。
どれも、撮っているとは言いにくい。
でも、完全にやめたとも言いにくい。
「撮ってないです」
佐知は答えた。
少し遅れて、言い直したくなった。
「あんまり」
先生は「そっか」と言った。
それだけだった。
残念がりすぎない。
励ましすぎない。
「でも、見るのは好き?」
「分からないです」
「分からないか」
小森谷先生は笑った。
困ったようではなく、受け取っただけの笑い方だった。
佐知はその笑い方にも困った。
高校の時も、先生はこういう受け取り方をした。
正解をすぐ言わない。
生徒が言った変な感想も、一度そのまま置く。
それが好きだった時期もある。
写真部の部室で、佐知が「この窓の端が気になる」と言うと、先生は「端が気になるんだ」と返した。笑わなかった。だから、佐知はもう少しだけその窓を撮ってみようと思えた。
その記憶まで戻ってくるのが、ずるい。
嫌な言葉だけを持ってきてくれればいいのに、そうではない。
いい記憶も一緒に戻ってくる。
だから、先生をただ嫌な人にできない。
掲示板のガラスに、二人の姿が並んで映っていた。
先生は記憶より少し小さく見える。
佐知が大きくなっただけかもしれない。
高校の廊下で見上げていた人を、今は同じ高さで見ている。
それだけで、少し距離が分からなくなった。
まだ慣れない。
足元だけが、やけに現実だった。
怒る準備ができない。
傷つけられたと訴える準備もできない。
先生はファイルを抱え直した。
「阿久津さん、今は大学生?」
「休んでます」
言ってしまってから、少し後悔した。
小森谷先生は眉をわずかに上げたが、余計なことは言わなかった。
「そっか」
また、そっか。
その短さが少しだけありがたくて、少しだけ物足りなかった。
佐知はチラシを見た。
講評会あり。
前のほうが。
阿久津さんらしかったね。
その声は、今もはっきり残っている。
小森谷先生本人が目の前にいる。
聞ける。
聞かなければ、このまま普通の再会で終わる。
普通の再会。
懐かしい先生。
傘立てを覚えている先生。
写真をまだ撮っているか聞く先生。
それで終われる。
終われるはずだった。
佐知は口を開いた。
「先生」
「うん?」
小森谷先生が佐知を見る。
佐知は、聞いたら戻れないと思った。
でも、口は止まらなかった。
「前のほうが、阿久津さんらしかったって言ったの覚えてますか」
言ってしまった。
文化センターの自動ドアが開いた。
冷たい空気が、二人の間を少しだけ通った。




