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第053話 オボエテナ・一

次の日、佐知は丸藤第六ビルへ行かなかった。


行かなかった、というより、別の道を歩いた。


財布は持った。


昨日忘れたから、玄関を出る前に二回確認した。財布。スマホ。鍵。大学の封筒は持たない。封筒は机の上に置いたままにした。


青いアイスの代金を払うなら、丸藤第六ビルへ行く理由になる。


でも、それを理由にするのは少し分かりやすすぎた。


今日はそれで、と言われた次の日に、また同じ場所へ行く。


それは別に悪いことではない。


悪いことではないのに、佐知は駅の南側へ出た。


北口へ出なければ、丸藤第六ビルの前は通らない。


スーパーも南側にある。文具店もある。市役所の出張所もある。用事を作るなら、南側のほうが作りやすい。


佐知は文具店で封筒を買った。


大学へ何かを送る予定はない。


でも、家にある封筒の角が曲がっているのが急に気になった。新しい封筒があれば、何か進んだような気がするかもしれない。


十枚入り。


白。


厚口。


レジで支払って、袋はいらないと言った。封筒の束を鞄に入れる。鞄の中で、角が折れないようにノートの間へ挟んだ。


やっていることは、ほとんど何も進んでいない。


それでも、何かを買ったという事実だけが残る。


写真ではない。


封筒。


佐知は文具店を出て、駅へ戻る道を歩いた。


日差しは強いが、昨日より少し風がある。街路樹の葉が細かく揺れ、歩道の端に落ちた紙片が何度も裏返っている。


紙片を見て、佐知は足を止めかけた。


撮らない。


撮れない日かどうか、今は決めない。


昨日やえに言われた言葉が、変なところで効いている。撮れない日、と言えば少し軽くなる。でも、何でもそれにしてしまうと、また別の言い訳になる。


今日は撮れない日。


今日は撮るほどじゃない日。


今日は財布を持っている日。


名前をつければ、全部が少し整ったように見える。


整ったように見えるだけだ。


佐知は紙片をまたいだ。


駅へ戻る道は、少し遠回りをすると市の文化センターの前を通る。


遠回りだと気づいたのは、曲がったあとだった。


白い建物が見えた。


市民文化センター。


ガラスの自動ドア。


入口の横に掲示板。


古いページで見た名前と同じ建物だ。


実物の建物は、古いページの中よりずっと大きかった。


当たり前だ。


ページでは、白い背景に文字が並んでいただけだった。受賞作品一覧。学校名。名前。小さな画像。画面の中では、文化センターは場所というより、ただの見出しだった。


目の前の文化センターには、階段があり、手すりがあり、入口マットがあり、傘袋のスタンドがあった。


傘袋のスタンドを見て、佐知は嫌な気持ちになった。


傘立てではない。


雨も降っていない。


それでも、透明な袋が束になっているだけで、昔の昇降口の湿った匂いが少し戻ってくる。


佐知は足元を見た。


今日は乾いている。


水たまりはない。


撮るものはない、と言い切れれば楽だった。


佐知は一度、反対側の歩道へ渡ろうとした。


信号は赤だった。


赤で止まった。


その間に、文化センターの掲示板が目に入った。


コンサート。


陶芸教室。


子ども映画会。


高齢者向けスマホ講座。


その中に、写真展のチラシがあった。


高校生写真展。


青い文字。


白い余白。


小さなカメラの絵。


佐知は信号を見た。


まだ赤。


見なければいい。


でも、見てしまった。


今年の写真展らしい。募集ではなく、展示の案内だった。会期、展示室、入場無料。チラシの下のほうに、昨年度受賞作品の一部、として小さな写真が四枚並んでいる。


傘立てはない。


当たり前だ。


あれは昔のものだ。


それなのに、佐知は傘立てを探した。


銀色の棒。


青い傘。


床の水たまり。


自分の名前。


どれもチラシにはない。


ないのに、目の奥に勝手に出てくる。


佐知は掲示板へ近づいた。


近づきたくなかったのに、近づいた。


チラシの紙は少し波打っていた。掲示板のガラス越しだから、紙そのものには触れない。透明な板に、外の景色が映っている。


佐知の顔も映っていた。


写真展の文字と、佐知の顔が重なっている。


変な映り方だった。


佐知はスマホを出さなかった。


撮る対象ではない。


撮るほどじゃない。


撮れない。


どれでもある気がして、どれとも決めたくなかった。


チラシの端には、講評会あり、と小さく書いてあった。


講評。


その二文字で、喉の奥が少し詰まった。


講評会の部屋は、もっと狭かった気がする。


文化センターの二階か、別館か、もう覚えていない。長机の上に写真が並び、白い壁に展示パネルが立っていた。先生たちはパイプ椅子に座り、生徒は少し離れて立っていた。


誰かの写真について、光がどうとか、視点がどうとか、そんなことを話していた。


佐知は自分の番が近づくほど、手のひらが冷たくなった。


傘立ての写真は、悪くないと言われた。


それは覚えている。


でも、どの言葉が誰のものだったかは、もう混ざっている。


混ざっているのに、一つだけは混ざらなかった。


前のほうが、阿久津さんらしかったね。


その声だけが、形を保って残っている。


長机。


並べられた写真。


先生の手。


部員たちの声。


阿久津さんらしい。


前のほうが。


そこまで思い出して、佐知は息を止めた。


今の文化センターの前には、誰もいない。


入口から出てくる人もいるが、佐知のことなど見ていない。チラシを見て立ち止まっているだけの女にすぎない。


それでも、見られている気がした。


誰に。


分からない。


小森谷先生か。


写真部の部員か。


古いページに残った自分の名前か。


それとも、昨日から少しだけましになったと思いたい自分か。


信号が青になった。


渡れる。


渡れば、文化センターから離れられる。


佐知は動かなかった。


青信号が点滅し始める。


それでも、足は掲示板の前に残った。


写真展のチラシを見て、佐知は止まっていた。

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