第052話 トケノコリ・四
佐知はカメラを開いたまま、コンビニ袋を見ていた。
小石。
白い袋。
青い袋。
袋の口から見える木の棒。
コンクリートの上に残った、薄い水の跡。
水の跡には、小さな砂が二粒くっついていた。袋が風でふくらむたびに、その砂だけが少し光る。肉眼だと分かるのに、画面の中ではただの汚れに見えた。
画面の中では、どれも少し頼りなかった。肉眼で見た時より、暑さも、冷たさも、袋の内側の水滴も分かりにくい。
それでも、そこにはあった。
今日の屋上の、今食べ終わったばかりのアイスの残り。
佐知はシャッターボタンの上に指を置かなかった。
置いたら、押すか押さないかを決めなければいけない。
だから、指は画面の端に置いた。
逃げている。
そう思った。
でも、閉じていない。
それも本当だった。
やえは隣で、膝を抱えていた。スマホは出していない。コンビニ袋も撮らない。白いアイスの棒も、青い袋も、やえの画面には入らない。
「阿久津さん」
やえが呼んだ。
佐知は画面を見たまま返事をした。
「なに」
「撮れない日って、あるんですか」
佐知はすぐに答えなかった。
風が吹いた。
コンビニ袋を押さえている小石が少しだけ動いた。袋の口がふくらみ、すぐにしぼむ。画面の中でも同じように動いた。少し遅れて見える気がした。
撮れない日。
言い方が雑だと思った。
日で決まるものなのか。
昨日も撮れなかった。
今日も、指が止まっている。
でも、そう言ってしまうと、全部が重くなる。
佐知はカメラを閉じずに、画面の中の袋を見た。
「ある」
声は小さかった。
でも、昨日の「撮れない」よりは少しだけはっきりしていた。
やえはうなずいた。
「どのくらいあります?」
「数えるの」
「数えません」
「じゃあ聞かないで」
「だいたいです」
「だいたい、いっぱい」
「雑」
「そっちが聞いた」
やえは少し笑った。
佐知は笑わなかった。
笑ってしまえば、軽くなる。
軽くなったほうがいい時もある。やえはたぶん、それを知っている。だからアイスを二本買うし、撮るほどじゃないんで、と前に佐知が捨てた言葉を拾ってくる。
でも、今はまだ笑うところまで行けなかった。
撮れない日がいっぱいある。
それは冗談みたいな言い方で、冗談ではなかった。
カメラを開いたまま止まった日。
スマホを出さなかった日。
撮ったのに消した日。
その三つだけでも、指の感じは残っている。
画面の明るさや、閉じたあとの黒さだけは、変に覚えていた。
数えないと言いながら、思い出そうとすれば、いくらでも出てくる。
佐知は画面から目を離した。実物のコンビニ袋を見る。画面より、実物のほうがずっと暑そうだった。青い袋の端が少し濡れていて、コンクリートに細い跡をつけている。
「やえは」
佐知は聞いた。
「撮らない日、あるの」
やえは自分のスマホが入っているポケットを押さえた。
「あります」
「今日?」
「今のところ」
「アイスは撮らない」
「撮りません」
「屋上は?」
「昨日撮ったので」
「昨日の屋上と今日の屋上、違うけど」
「違いますね」
「じゃあ撮れば」
言ってから、佐知は自分で嫌な言い方だと思った。
やえは怒らなかった。
「終わってないので」
そう言った。
佐知は少しだけ顔を上げた。
やえはフェンスの向こうを見ていた。
「何が」
「今日の屋上」
「終わってないと撮らないの」
「たぶん」
「自分のことなのに、たぶん」
「阿久津さんも自分のこと、だいたいで言いました」
「それは」
「同じです」
同じではない。
そう言おうとして、やめた。
同じではないけれど、全然違うとも言えない。
佐知はスマホを下ろした。
カメラはまだ開いている。下ろしたせいで、画面にはコンクリートのざらつきだけが映った。白いシャッターボタンが、やけに大きく見える。
押さない。
閉じる。
佐知は画面を暗くした。
撮らなかった。
撮れなかった。
でも、画面を見ていた時間は残っている。
どこにも保存されない時間だ。
それでも、なかったことにはしにくい。
暗い画面には、袋ではなく自分の指が映った。親指の先に、アイスの袋を押さえたあとが少し残っている。佐知はそれを爪でこすったが、べたつきはすぐには消えなかった。
やえはスマホを出さないまま、コンビニ袋を持ち上げた。
「捨てます」
「どこに」
「下のゴミ袋に」
「ハルエさんに怒られない?」
「分別します」
「ならいい」
やえは立ち上がった。
袋の中で、二本分の棒が軽く当たる。
カサ。
小さな音だった。
佐知も立ち上がるか迷って、まだ座っていた。
足の裏に、コンクリートの熱が伝わっている。日陰は少しずつずれて、さっきまで影だったところにも光が差していた。
撮れない日でも、時間は進む。
袋の中のアイスは溶ける。
影はずれる。
ハルエは下で椅子を拭いている。
大学の封筒は部屋の机にある。
何も決まらないまま、決まらない時間だけが進む。
佐知はそれが嫌だった。
嫌なのに、今日はその中に座っていた。
帰ることもできた。
上がらないこともできた。
財布を忘れたまま戻ることもできた。
どれもできたのに、今は屋上にいる。
「阿久津さん」
やえが袋を持ったまま言った。
「なに」
「今日は撮れない日ですか」
佐知は少し黙った。
今日。
撮れない日。
そう決めると、負けたみたいに聞こえる。
でも、撮れない人、よりはましだった。
今日だけのことにできる。
明日もそうかもしれない。
あさってもそうかもしれない。
それでも、今日と言える。
「そうかも」
佐知は答えた。
やえはうなずいた。
「じゃあ、今日はそれで」
軽かった。
あまりに軽くて、佐知は少し腹が立ちかけた。
でも、その軽さのまま、言葉は屋上に置かれた。
重くしすぎない置き方だった。
撮れない日。
やえの言い方は軽すぎて、少し腹が立つ。
でも、その軽さがなかったら、たぶん持てなかった。
佐知は暗くなったスマホの画面を見た。
自分の顔が少し映っていた。
昨日より、少しましな顔かどうかは分からない。
分からないまま、佐知は画面を伏せた。




