第051話 トケノコリ・三
青いアイスは、思ったより早く溶けた。
佐知は袋の下を少し折って、垂れそうになるところを押さえた。指が冷たい。冷たいのに、手首のほうは屋上の熱で汗ばんでいる。変な感じだった。
やえは白いアイスを半分くらい食べて、棒を見ていた。
「また棒」
佐知が言うと、やえは棒を指でつまんだ。
「棒です」
「見れば分かる」
「当たりって書いてないかなと思って」
「そういうやつ?」
「たぶん違います」
「じゃあ見てもないよ」
「ないですね」
やえは棒を見終わると、袋の中に戻した。
佐知は少しだけ意外に思った。
「撮らないの」
やえはコンビニ袋の口を閉じながら、顔を上げた。
「今日は撮りません」
「なんで」
「撮るほどじゃないんで」
佐知は一瞬、返事を忘れた。
その言い方を知っている。
前に自分が言った。
丸藤第六ビルの屋上で、やえに撮らないのかと聞かれて、撮るほどじゃないから、と返した。あの時は、そう言えば済むと思っていた。撮らない理由を、対象のほうへ押しつけられると思っていた。
撮るほどじゃない。
そう言えば、自分は悪くない。
何も見ていないわけではなく、撮る価値がないだけ。
そういう顔をしていたのかもしれない。
やえは白い袋を軽く丸めた。
「それ、私のやつ?」
佐知が聞くと、やえはうなずいた。
「拾いました」
「拾わないで」
「落ちてたので」
「落としてない」
「じゃあ、置いてありました」
「もっと嫌」
やえは少し笑った。
悪気のない笑い方だった。
佐知は青いアイスを見た。もう棒のほうまで薄く溶けている。早く食べないと、袋の中が青い水になる。佐知は残りをかじった。
冷たすぎて、こめかみの奥が少し痛くなった。
「撮るほどじゃないって、便利ですね」
やえが言った。
佐知はアイスの冷たさを飲み込んだ。
「便利?」
「はい。撮らなくても、撮れなくても、同じ言い方で済みます」
佐知は返事をしなかった。
やえは責めるようには言っていない。
ただ、その言葉を自分の手の中で転がしているだけだ。
でも、佐知には刺さった。
撮らない。
撮れない。
同じみたいに見えるのが、嫌だった。
スマホを出さない。
カメラを向けない。
シャッター音がしない。
写真一覧に増えない。
結果だけ見れば、何も起きていない。佐知が何を怖がったかも、何を見ていたかも、何を残したかったかも、外からは分からない。
青いアイスが、袋の端に少し垂れた。佐知は親指でそこを押さえた。
袋の底には青い水が薄くたまり、木の棒がその中で少し浮いた。甘い匂いが、熱い風の中で少しぬるくなっている。
押さえた親指はすぐにべたついた。拭くものを探して、佐知は自分の膝を見た。服につけるのは嫌で、結局そのままにした。指の腹が乾くまで、青い砂糖の膜が薄く張っている感じがした。
昨日、佐知はやっと、撮れないと言った。撮りたくないわけじゃないとも言った。言えた、というほど立派なものではない。小さな声で、屋上の熱に負けそうになりながら、ただ漏らしただけだ。
でも言った。
だから今日は、撮るほどじゃない、には戻りにくい。
戻りにくいのに、やえがその言葉を持っている。
「やえは」
佐知は言った。
「何でも撮るんじゃなかったの」
やえは首を横に振った。
「何でもは撮らないです」
「かなり何でも撮ってる」
「かなりです」
「棒も撮ってた」
「昨日は撮りました」
「今日は」
「今日は、いいかなって」
今度は少し言い方を変えた。
佐知は眉を寄せただけで、それ以上拾わなかった。
やえは白いアイスの棒を袋の中で少し動かした。カサ、と乾いた音がする。音だけは、妙に軽かった。
「でも、撮らない日もあるって言ったら、阿久津さん安心するかと思って」
佐知はやえを見た。
「しない」
「しませんか」
「しないし、そういう気を回されるとむかつく」
「すみません」
「謝るの早い」
「遅いとまた変な顔になるので」
佐知は少しだけ息を吐いた。
ハルエが言った、謝るのが下手そうな顔を思い出した。やえは本当に、謝る前の顔が下手だ。謝ったあとは、わりと普通の顔をする。
やえはコンビニ袋を小石で押さえた。
昨日のビニール袋と同じように。
佐知はその手元を見た。
昨日やえが撮った屋上写真には、佐知のサンダルが入っている。今日の袋にも、二本分のアイスの棒が入っている。撮られないまま、そこにある。
撮られないものが、消えるわけではない。
でも、残るわけでもない。
佐知はポケットからスマホを出した。
やえはすぐに気づいた。
何も言わなかった。
それが少しだけ助かった。
もし「撮るんですか」と聞かれたら、たぶん閉じた。
もし「撮らなくていいですよ」と言われても、たぶん閉じた。
急かされても、許されても、どちらも今は重い。
何も言われないことだけが、ぎりぎり軽かった。
やえが黙っていると、屋上の音が戻ってくる。
遠くの車。
下の階でハルエが何かを動かす音。
コンビニ袋の中で、溶けたアイスの袋がくっつく音。
それらは佐知を見ていない。
佐知は画面を開いた。
通知はない。
カメラのアイコンがある。
指で押す。
カメラが開く。
画面の中に、コンビニ袋が映った。小石。白い袋。青い袋。袋の口から少しだけ見える木の棒。コンクリートの上に落ちた、薄い水の跡。
袋の影は、思ったより濃かった。小石の下だけ乾いていて、周りのコンクリートには汗みたいな濡れが広がっている。画面越しだと、その湿り方が少し嘘っぽく見えた。
そう言えば、たぶん楽だ。
でも、今見ているものは、その言葉で横へ置けるものではなかった。
撮れるかどうか分からないから、見ている。
佐知は構図を直さなかった。
白い袋が端で切れている。
小石の位置も半端だ。
青い水の跡は、画面だとほとんど分からない。
直したくなる。
直したら、撮らなければいけない気がする。
佐知は直さなかった。
シャッターボタンは押さない。
でも、閉じもしなかった。
数秒。
本当に数秒だけ、佐知は画面の中のコンビニ袋を見た。
やえはその間、何も撮らなかった。
白いアイスの棒は、袋の中で静かに溶け残っていた。




