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第050話 トケノコリ・二

階段の一段目は、昨日より少し高く見えた。


実際には変わっていない。


佐知が変に意識しているだけだ。


一階の喫茶ポニー跡から屋上へ行く階段は、何度も上がっている。手すりの生ぬるさも、途中の踊り場の暗さも、壁に残った古い掲示跡も、もう珍しくない。


珍しくないのに、上がる前だけ少し止まる。


ハルエは何も言わない。


椅子の脚を拭く音だけが、店内に小さく続いている。


佐知は階段を上がった。


財布はない。


用事もない。


行かない理由ならまだ持っている。


でも、上がっている。


屋上の扉は閉まっていた。


佐知はノブに触れた。金属は熱い。指先をすぐ離したくなるほどではないが、長くは触っていたくない温度だった。


扉を押す。


光が入る。


屋上に、やえがいた。


給水塔の影ではなく、フェンスの近くにしゃがんでいる。膝の上にコンビニ袋を乗せ、片手で袋の口を押さえていた。風で飛ばないようにしているのか、中身を隠しているのか分からない。


佐知が出ると、やえは顔を上げた。


「来たんですね」


「来たけど」


「来ないかと思いました」


「私も」


言ってから、佐知は自分で少しだけ笑いそうになった。


来ないかと思った。


私も。


それで会話が成立するのは、少しおかしい。


やえはおかしいと思っていない顔でうなずいた。


「じゃあ、半分当たりですね」


「何が」


「来ないかと思った私と、来ないかと思った阿久津さん」


「両方外れてる」


「来たので」


「そう」


佐知は屋上へ入った。


昨日やえが撮った場所が、自然に目に入る。給水塔の脚。フェンスの影。茶色い葉っぱは、もう少し端へ動いていた。風で転がったのか、誰かが踏んだのか、丸まり方が変わっている。


佐知のスマホにはない屋上。


でも、やえのスマホにはある屋上。


佐知はそのことを考えて、ポケットの中のスマホを指で押した。画面は開かない。カメラも開かない。


やえがコンビニ袋を持ち上げた。


中から、アイスが二本出てきた。


青い袋と、白い袋。


どちらも細長い棒アイスだった。


「またアイス」


佐知が言うと、やえは当然みたいな顔をした。


「暑いので」


「それ、何回目」


「暑い回数分くらい」


「多い」


やえは青い袋を佐知に差し出した。


佐知は受け取らなかった。


「財布忘れた」


「知ってます」


「ハルエさんに聞いた?」


「下から声が聞こえました」


「じゃあ、なおさら」


「お金はいらないです」


「そういうの嫌なんだけど」


「じゃあ、後払いで」


「財布持ってきた日に?」


「はい」


「覚えてたら」


「たぶん忘れます」


「じゃあ後払いじゃないじゃん」


やえは袋を持ったまま、少し考えた。


「じゃあ、今日は私の都合です」


「何の都合」


「二本買ったので」


佐知はコンビニ袋の中を見た。


本当に二本だけ入っている。保冷用の小さな袋もない。袋の内側に水滴がつき始めている。


「なんで二本」


「阿久津さんが来るかもしれなかったので」


やえは平気な顔で言った。


佐知は返事に困った。


来るかもしれなかった。


待っていた、とは言わない。


呼んだ、でもない。


それなのに、青い袋は佐知の前にある。


やえはたぶん、こういうところをわざと曖昧にする。


待っていたと言えば、佐知は逃げる。


待っていないと言えば、二本目のアイスが説明できない。


だから、来るかもしれなかった、で止める。そこに好意みたいなものがあるのか、ただの暑さ対策なのか、佐知が決めなくて済む言い方にする。


ずるい。


でも、そのずるさは少し助かった。


「来なかったら?」


佐知が聞くと、やえは白い袋を自分の膝に置いた。


「二本食べるつもりでした」


「お腹壊すよ」


「壊したら、明日来ない理由になります」


「ならない」


「なりませんか」


「病院行きな」


「そこまでじゃないです」


やえは青い袋をもう一度差し出した。


佐知はしばらく見た。


袋の表面に水滴がついている。指で持ったら、すぐ冷たくなる。昨日の水のペットボトルと逆だ。昨日はぬるくなっていく水を持っていた。今日は溶けていくアイスが差し出されている。


青い袋の端には、コンビニの冷凍ケースの白い霜が少しついていた。やえが買ってから、たぶんすぐ上がってきたのだろう。それでも屋上では、霜はすぐ水になる。


待っていた時間の長さが、水滴で分かる気がした。


分かる気がしただけで、聞かなかった。


受け取らなければ、やえが二本食べる。


受け取れば、来るかもしれないと思われていたことを認めるような気がする。


佐知は青い袋を受け取った。


「後で払う」


「忘れていいです」


「忘れない」


「じゃあ覚えててください」


「命令?」


「お願いです」


やえは白い袋の端を切った。


歯で切ろうとして、佐知に見られていることに気づき、手で切り直す。


「今、歯でいこうとした」


「してません」


「した」


「暑いと判断が雑になります」


「いつも雑でしょ」


「今日は暑さのせいにできます」


やえは白いアイスを少しだけ出した。


佐知も青い袋を開ける。冷たい空気が指先に触れた。棒を引くと、青いアイスが少しだけ出てくる。表面はもう少し溶けて、薄く光っていた。


屋上の熱の中で食べるアイスは、正しい気がした。


正しい、というほどでもない。


ただ、今食べないと溶ける。


それだけの理由は、分かりやすかった。


佐知は一口食べた。


舌が冷たい。


安い味がする。


やえは白いアイスをかじりながら、フェンスの向こうを見た。


「阿久津さん」


「なに」


「来ない理由、ありました?」


佐知は青いアイスを少し下げた。


「いっぱいあった」


「なのに来たんですね」


「来たけど」


「はい」


やえはそれ以上、理由を聞かなかった。


二本のアイスは、屋上の暑さで少しずつ溶けていく。


佐知は青い袋の端を持ち直した。


来ないかと思った。


私も。


その短い会話だけが、アイスより長く手の中に残っていた。

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