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第049話 トケノコリ・一

佐知は丸藤第六ビルへ行かない理由を探した。


朝起きて、まず天気を見た。


晴れ。


行かない理由にならない。


気温を見た。


暑い。


これは理由になる。


なるけれど、昨日もおとといも暑かった。暑いだけでは、理由として少し古い。


佐知はスマホを伏せた。


机の上には、大学からの封筒がある。中身は見ていない。見ていないのに、紙の厚みだけは覚えてしまっている。封筒の角は少し曲がり、表面には細い折れ目が入っていた。


書類を見る。


それなら、丸藤第六ビルへ行かなくていい。


正しい。


佐知は封筒を手に取った。


紙の端を親指でなぞる。


開ける。


開けない。


はさみはペン立てにある。


立ち上がれば届く。


佐知は立ち上がらなかった。


封筒を机に戻すと、代わりにスマホを取った。最近削除した項目を開きそうになって、やめる。カメラも開かない。昨日、屋上を撮ろうとして撮れなかったことは、まだ指の先に残っていた。


押せなかった。


押さなかったのではない。


その違いを言葉にしたせいで、今までよりごまかしにくくなっている。


佐知は洗濯物をたたんだ。


昨日干したTシャツは、乾きすぎて少し硬かった。袖を合わせ、肩を合わせ、四角くたたむ。たたみ方が雑になると、やり直したくなる。面倒くさくて、わざと少しずらしたまま置いた。


一枚だけ、部屋着の裾に洗濯ばさみの跡がついていた。


小さなへこみ。


写真にしたら、たぶん分からない。


分からないものを、わざわざ撮ることも、昔はあった。


布の端。机の上の影。水滴の跡。誰かが見ても何か分からないものを、一人で見つけた気になって撮っていた。


今は、そういうものほど撮りにくい。


理由がないものは、理由がないまま撮ればよかった。


それができない。


用事はある。


洗濯物も、書類も、見ようと思えばまだ残っている。


行かない理由は、ちゃんとある。


ちゃんとあるのに、どれも弱い。


昼を過ぎると、部屋の空気がさらに重くなった。エアコンの風は出ているのに、床の上の熱は残っている。ベランダの外で、誰かの自転車のベルが鳴った。


壁際に置いた紙袋の影も、朝より少し短くなっている。時間だけが勝手に進んでいた。


佐知は冷蔵庫を開けた。


麦茶は少しだけ残っている。飲み物を買いに行く理由はない。


冷凍庫は空だった。


アイスを買う理由は、ある。


すぐ閉めた。


アイスを買いに行くのは、あまりに分かりやすすぎる。


佐知は財布を持たずに玄関まで行った。


靴を履かないまま、ドアの前に立つ。


行かない。


今日は行かない。


やえに会う必要はない。昨日の写真を見せてもらう約束もしていない。自分が撮れなかった屋上を、やえが撮った。その事実は、佐知のスマホには入っていない。やえのスマホにある。


だから、行かなくていい。


行かないほうがいい。


行ったら、昨日撮れなかった自分をもう一度持っていくことになる。


佐知はドアを開けた。


外の廊下は、部屋より少しだけ空気が動いていた。階段を下りると、地面から熱が上がってくる。財布は持っていない。小銭もない。飲み物も買えない。


これなら、途中で戻れる。


戻る理由になる。


佐知はそう思って歩いた。


駅前の信号で止まる。


鞄を持っていない。


財布も持っていない。


スマホだけある。


スマホがあれば、だいたい何とかなる。コンビニでも払える。電車にも乗れる。電話もできる。写真も撮れる。


撮れる。


その言葉に、少しだけ腹が立った。


機械としては撮れる。


佐知が撮れないだけだ。


青信号になった。


佐知は渡らず、右へ曲がった。


丸藤第六ビルへ行く道だ。


行かない理由を探していたはずなのに、足は一番慣れた言い訳のほうへ向かっていた。日陰の少ない歩道を歩き、コンビニの前を通る。店内の冷気が自動ドアの隙間から少し漏れた。


自動ドアの前で、小学生くらいの子がアイスのケースをのぞいていた。


母親らしい人に「一個だけ」と言われ、子どもは真剣な顔でケースの中を見比べている。たぶん世界の大事なことを決める顔だった。


佐知は通り過ぎながら、その顔を少し見た。


撮らない。


撮ってはいけない。


知らない子どもだから、という理由は正しい。


正しい理由があると、少し楽だった。


入らない。


財布がないから。


スマホで払えるけど、入らない。


佐知はそのまま通り過ぎた。


丸藤第六ビルは、いつもより少し白っぽく見えた。日差しが強いせいで、外壁の汚れまで薄く光っている。解体告知の紙は端がまた少し反っていた。透明テープの気泡は昨日のままだ。


昨日と同じ。


なのに、昨日とは少し違う。


佐知のほうが違うだけかもしれない。


一階の喫茶ポニー跡の扉は、半分だけ開いていた。


中から、椅子を引きずる音がする。


「こんにちは」


佐知が声をかけると、ハルエがカウンターの向こうから顔を出した。


「財布忘れた顔してる」


「なんで分かるんですか」


「手ぶらだから」


「手ぶらの人、全員そうなんですか」


「今日はそういうことにしとく」


ハルエは雑に言って、椅子の脚についたほこりを布で拭いた。店内は前より少し片付いている。カップの数も、紙ナプキンの束も、位置が決まりつつあるように見えた。


決まりつつある。


壊す前なのに。


佐知は入口のところで立ったまま、奥を見た。


「手伝いですか」


「違うよ」


「じゃあ、何を」


「別に」


ハルエは布をたたんだ。


「上、いるよ」


それだけ言って、また椅子へ視線を戻した。


佐知は返事をしなかった。


上。


いる。


誰が、とは言わない。


言わなくても分かる。


ハルエはそれ以上、上がれとも、帰れとも言わなかった。


佐知は階段のほうを見た。


行かない理由は、まだいくつもあった。


財布を忘れた。


暑い。


用事がある。


撮れない。


それでも、階段の一段目は目の前にあった。

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