表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/96

第048話 スキダッタケ・四

やえはそのあと、学校の話をしなかった。


佐知も聞かなかった。


終わらせたくないものは、撮らないのかもしれません。


やえの言葉は、屋上の熱より長く残った。


フェンスの影が少し動いている。給水塔の足元には、乾いた葉っぱが一枚引っかかっていた。どこから飛んできたのか分からない。丸まって、茶色くなって、風が吹くたびに少しだけ震える。


佐知はそれを見ていた。


やえはスマホをポケットにしまった。


「暑いですね」


いつもの声に少し戻っていた。


「今さら」


「ずっと暑いとは思ってました」


「言わないと分からない?」


「言うと余計に暑いです」


「じゃあ言わないで」


「もう言いました」


やえは淡々と返した。


佐知は少し息を吐いた。


屋上は、何も解決していない場所だった。


喫茶ポニー跡はまだ片付いている途中で、丸藤第六ビルは壊れる予定で、大学の封筒は部屋にある。最近削除した項目には、佐知が撮ってすぐ消した写真が残っている。傘立ての写真は古いページにあり、やえのスマホにはブレたアイスの棒がある。


何も終わっていない。


それなのに、佐知はこの場所の細かいものを、ずいぶん覚えてしまっていた。


フェンスの錆。


排水口の丸いふた。


給水塔の脚の塗装がはげたところ。


コンクリートのひび。


ハルエが置いていった折りたたみ椅子。


やえが石で押さえたビニール袋。


入口の扉についた、誰かの手の跡。


覚えようと思って覚えたわけではない。


何度も見て、何度も撮らずに、勝手にたまった。


「阿久津さん」


やえが呼んだ。


「なに」


「今、また採点してます?」


「してない」


「見てる顔が、ちょっとそれっぽかったです」


「どういう顔」


「細かいところに文句言いそうな顔」


「最低」


「褒めてないです」


「知ってる」


佐知は言いながら、給水塔の影へ少し歩いた。


影に入ると、ほんの少しだけ涼しい。ほんの少しだから、涼しいと言うほどでもない。けれど日なたよりはましだった。


やえも少し遅れて影に入った。


二人で並ぶほど広い影ではない。


佐知は半分だけ日なたに出た。


「出なくていいです」


やえが言った。


「狭い」


「私が出ます」


「いい」


「じゃあどっちも半分で」


やえは勝手に決めて、影の端に立った。


二人とも、片側だけ日が当たっている。


佐知は少し笑った。


「何これ」


「節約です」


「影の?」


「はい」


やえはまじめな顔で言った。


その顔が少しおかしくて、佐知はまた笑いそうになった。


笑いそうになった自分に気づいて、目をそらす。


屋上の端に、フェンスの影が斜めに落ちている。


さっきより、少し線が濃い。


佐知はスマホを取り出した。


指が勝手に動いた、というほどではない。


出そうと思って出した。


それだけで、心臓が少し速くなった。


やえは何も言わなかった。


何も言わないのに、気づいている。


佐知はホーム画面を開いた。通知はない。カメラのアイコンが、いつもの位置にある。押すだけで開く。押すだけで、画面の中に屋上が入る。


押した。


カメラが開いた。


画面の中に、屋上が映った。


給水塔の脚。


フェンスの影。


コンクリート。


茶色い葉っぱ。


画面の端に、やえの靴の先が少し入った。


佐知は角度を変えた。


やえの靴を外す。


今度は給水塔の脚が切れすぎる。


少し下げる。


排水口の丸いふたが入る。


悪くない。


そう思った瞬間、佐知の指が止まった。


悪くない。


いい。


その言葉が勝手に近づいてくる。


撮る前なのに、もう撮った後のことを考えている。


いい写真か。


そうでもない写真か。


阿久津さんらしいか。


前のほうがよかったか。


誰かが何か言う前に、自分の中で声が増える。


佐知は画面を見たまま、動けなくなった。


シャッターボタンは白い丸で、画面の下にある。


押すだけ。


本当に、押すだけだった。


押せなかった。


やえは何も言わない。


何も言わないまま、隣で半分だけ日なたに立っている。


佐知はカメラを閉じなかった。


閉じたら、最初から撮る気がなかったことにしてしまいそうだった。


それは違う。


撮りたかった。


撮りたいと思った。


そのことまで消したくなかった。


「撮れない」


佐知は小さく言った。


やえが佐知を見た。


「はい」


責める声ではなかった。


慰める声でもなかった。


ただ、聞いた声だった。


「撮りたくないわけじゃない」


佐知は続けた。


やえはうなずいた。


「はい」


それだけだった。


佐知はスマホを下ろした。


カメラはまだ開いている。画面の中の屋上は、さっきより少し斜めになった。やえの靴の先がまた入っている。


やえは自分のスマホを取り出した。


「じゃあ今日は、私ので」


佐知は顔を上げた。


「何を」


「屋上」


「勝手に?」


「屋上は、誰のものでもないので」


やえは前にも似たようなことを言った。


佐知は止めなかった。


やえはカメラを開いた。


構え方は相変わらず雑だった。腕をまっすぐ伸ばさず、少し傾け、画面をきちんと確認しているのかも怪しい。給水塔とフェンスと、影の端に立つ佐知のサンダルが入っている。


「私、入ってる」


佐知が言うと、やえは画面を見たまま答えた。


「嫌なら外します」


「顔じゃないからいい」


「じゃあ、靴だけ」


「靴だけって何」


やえは返事をせず、シャッターを押した。


カシャリ。


音は軽かった。


軽すぎて、屋上の空気を変えなかった。


やえは画面を確認した。


「ちょっと傾いてます」


「いつもでしょ」


「今日は、ましです」


「自分に甘い」


「人にも甘くする予定です」


やえはそう言って、写真を消さなかった。


佐知はやえの画面をのぞき込まなかった。


見せて、とも言わなかった。


でも、撮られたことは分かった。


給水塔の脚。


フェンスの影。


茶色い葉っぱ。


佐知のサンダル。


やえのスマホの中に、今日の屋上が入った。


佐知のスマホには入っていない。


それでも、佐知は自分のカメラをすぐ閉じなかった。画面の中の屋上をもう一度見た。白いシャッターボタンは、まだそこにある。


押せなかった。


押さなかったのではない。


撮れなかった。


でも、撮りたくなかったことにはしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ