第048話 スキダッタケ・四
やえはそのあと、学校の話をしなかった。
佐知も聞かなかった。
終わらせたくないものは、撮らないのかもしれません。
やえの言葉は、屋上の熱より長く残った。
フェンスの影が少し動いている。給水塔の足元には、乾いた葉っぱが一枚引っかかっていた。どこから飛んできたのか分からない。丸まって、茶色くなって、風が吹くたびに少しだけ震える。
佐知はそれを見ていた。
やえはスマホをポケットにしまった。
「暑いですね」
いつもの声に少し戻っていた。
「今さら」
「ずっと暑いとは思ってました」
「言わないと分からない?」
「言うと余計に暑いです」
「じゃあ言わないで」
「もう言いました」
やえは淡々と返した。
佐知は少し息を吐いた。
屋上は、何も解決していない場所だった。
喫茶ポニー跡はまだ片付いている途中で、丸藤第六ビルは壊れる予定で、大学の封筒は部屋にある。最近削除した項目には、佐知が撮ってすぐ消した写真が残っている。傘立ての写真は古いページにあり、やえのスマホにはブレたアイスの棒がある。
何も終わっていない。
それなのに、佐知はこの場所の細かいものを、ずいぶん覚えてしまっていた。
フェンスの錆。
排水口の丸いふた。
給水塔の脚の塗装がはげたところ。
コンクリートのひび。
ハルエが置いていった折りたたみ椅子。
やえが石で押さえたビニール袋。
入口の扉についた、誰かの手の跡。
覚えようと思って覚えたわけではない。
何度も見て、何度も撮らずに、勝手にたまった。
「阿久津さん」
やえが呼んだ。
「なに」
「今、また採点してます?」
「してない」
「見てる顔が、ちょっとそれっぽかったです」
「どういう顔」
「細かいところに文句言いそうな顔」
「最低」
「褒めてないです」
「知ってる」
佐知は言いながら、給水塔の影へ少し歩いた。
影に入ると、ほんの少しだけ涼しい。ほんの少しだから、涼しいと言うほどでもない。けれど日なたよりはましだった。
やえも少し遅れて影に入った。
二人で並ぶほど広い影ではない。
佐知は半分だけ日なたに出た。
「出なくていいです」
やえが言った。
「狭い」
「私が出ます」
「いい」
「じゃあどっちも半分で」
やえは勝手に決めて、影の端に立った。
二人とも、片側だけ日が当たっている。
佐知は少し笑った。
「何これ」
「節約です」
「影の?」
「はい」
やえはまじめな顔で言った。
その顔が少しおかしくて、佐知はまた笑いそうになった。
笑いそうになった自分に気づいて、目をそらす。
屋上の端に、フェンスの影が斜めに落ちている。
さっきより、少し線が濃い。
佐知はスマホを取り出した。
指が勝手に動いた、というほどではない。
出そうと思って出した。
それだけで、心臓が少し速くなった。
やえは何も言わなかった。
何も言わないのに、気づいている。
佐知はホーム画面を開いた。通知はない。カメラのアイコンが、いつもの位置にある。押すだけで開く。押すだけで、画面の中に屋上が入る。
押した。
カメラが開いた。
画面の中に、屋上が映った。
給水塔の脚。
フェンスの影。
コンクリート。
茶色い葉っぱ。
画面の端に、やえの靴の先が少し入った。
佐知は角度を変えた。
やえの靴を外す。
今度は給水塔の脚が切れすぎる。
少し下げる。
排水口の丸いふたが入る。
悪くない。
そう思った瞬間、佐知の指が止まった。
悪くない。
いい。
その言葉が勝手に近づいてくる。
撮る前なのに、もう撮った後のことを考えている。
いい写真か。
そうでもない写真か。
阿久津さんらしいか。
前のほうがよかったか。
誰かが何か言う前に、自分の中で声が増える。
佐知は画面を見たまま、動けなくなった。
シャッターボタンは白い丸で、画面の下にある。
押すだけ。
本当に、押すだけだった。
押せなかった。
やえは何も言わない。
何も言わないまま、隣で半分だけ日なたに立っている。
佐知はカメラを閉じなかった。
閉じたら、最初から撮る気がなかったことにしてしまいそうだった。
それは違う。
撮りたかった。
撮りたいと思った。
そのことまで消したくなかった。
「撮れない」
佐知は小さく言った。
やえが佐知を見た。
「はい」
責める声ではなかった。
慰める声でもなかった。
ただ、聞いた声だった。
「撮りたくないわけじゃない」
佐知は続けた。
やえはうなずいた。
「はい」
それだけだった。
佐知はスマホを下ろした。
カメラはまだ開いている。画面の中の屋上は、さっきより少し斜めになった。やえの靴の先がまた入っている。
やえは自分のスマホを取り出した。
「じゃあ今日は、私ので」
佐知は顔を上げた。
「何を」
「屋上」
「勝手に?」
「屋上は、誰のものでもないので」
やえは前にも似たようなことを言った。
佐知は止めなかった。
やえはカメラを開いた。
構え方は相変わらず雑だった。腕をまっすぐ伸ばさず、少し傾け、画面をきちんと確認しているのかも怪しい。給水塔とフェンスと、影の端に立つ佐知のサンダルが入っている。
「私、入ってる」
佐知が言うと、やえは画面を見たまま答えた。
「嫌なら外します」
「顔じゃないからいい」
「じゃあ、靴だけ」
「靴だけって何」
やえは返事をせず、シャッターを押した。
カシャリ。
音は軽かった。
軽すぎて、屋上の空気を変えなかった。
やえは画面を確認した。
「ちょっと傾いてます」
「いつもでしょ」
「今日は、ましです」
「自分に甘い」
「人にも甘くする予定です」
やえはそう言って、写真を消さなかった。
佐知はやえの画面をのぞき込まなかった。
見せて、とも言わなかった。
でも、撮られたことは分かった。
給水塔の脚。
フェンスの影。
茶色い葉っぱ。
佐知のサンダル。
やえのスマホの中に、今日の屋上が入った。
佐知のスマホには入っていない。
それでも、佐知は自分のカメラをすぐ閉じなかった。画面の中の屋上をもう一度見た。白いシャッターボタンは、まだそこにある。
押せなかった。
押さなかったのではない。
撮れなかった。
でも、撮りたくなかったことにはしなかった。




