第047話 スキダッタケ・三
次も、いいって言われなきゃいけなくなるのが嫌。
言ったあとで、佐知は自分の声が少し遠く聞こえた。
やえはすぐに何も言わなかった。
それがありがたいのか、気まずいのか、佐知には決められなかった。すぐ分かったような顔をされても腹が立つ。かといって、沈黙が長いと、今度は自分の言葉が間違っていたような気がしてくる。
やえは足元の小石をつま先で少し押した。
小石は転がらず、コンクリートの浅いくぼみに引っかかった。
「それって」
やえが言った。
佐知は身構えた。
「毎回、前の自分と比べられるみたいなことですか」
「近いけど、たぶん違う」
「違いますか」
「うん」
「じゃあ、分からないです」
やえはあっさり言った。
佐知は少しだけ笑いそうになった。
「早い」
「分かるって言うのは違う気がしたので」
「そういうところ、たまにまじめだよね」
「たまにですか」
「たまに」
やえは不満そうな顔をしたが、言い返さなかった。
佐知はフェンスへ近づいた。
金網の向こうに、駅前の通りが見える。人は小さく、車は薄い箱みたいだった。ビルの屋上から見る町は、地上より少しだけ雑に見える。雑なのに、どこに何があるかは分かる。
コンビニ。
横断歩道。
スーパーへ行くはずだった道。
丸藤第六ビルへ来てしまう道。
「最初は」
佐知は言った。
やえは少し離れたところで聞いている。
「最初は、ただ撮ってただけだった」
「傘立てですか」
「傘立ても。他も」
写真部に入ったばかりの頃、佐知は何でも撮った。
昇降口の傘立て。
雨の日の廊下。
空の花瓶。
剥がれかけた掲示物。
体育館裏の、誰も使っていないバケツ。
弁当のふたに落ちた梅干しの赤。
部活帰り、校門の近くに置かれた三角コーン。
撮りたいものに、理由をつける必要はなかった。目が止まる。少し近づく。しゃがむ。傾ける。押す。それだけだった。
もちろん、ちゃんと撮ろうとはしていた。
ピントも、明るさも、端に何が入るかも気にしていた。雑に押して終わりではなかった。けれど、それは誰かの期待に合わせるためではなかった。
自分の目が止まったものを、自分の手で、もう一度見るためだった。
「好きだっただけなんだと思う」
佐知は言った。
言葉にすると、少し幼く聞こえた。
好きだった。
それだけ。
それだけのものが、どうしてこんなに扱いづらいのか。
「好きで撮ってただけなのに」
佐知は続けた。
「褒められたら、次も褒められなきゃいけなくなった」
やえは黙っていた。
佐知は笑わないまま、口の端だけを動かした。
「勝手にそう思っただけかもしれないけど」
「勝手でも、思ったらありますよ」
やえが言った。
佐知は少しだけ振り返った。
「ある?」
「はい。勝手に思っただけでも、消えないやつあります」
やえはフェンスに背中を預けなかった。錆びているからか、ただの癖か、少しだけ距離を置いて立っている。
「阿久津さんらしいって、いい意味だったかもしれないじゃないですか」
「いい意味だったと思うよ」
「それでも嫌なんですか」
「嫌っていうか」
佐知は言葉を探した。
「その言葉が先に立つようになった」
「先に」
「撮る前に、阿久津さんらしいかなって考える。前のほうがよかったって言われないかなって考える。何も撮ってないのに、もう見られてるみたいになる」
やえの顔が少しだけ曇った。
「写真なのに」
「写真なのに」
佐知は繰り返した。
撮るために見るはずだった。
でも、いつの間にか、見られるために撮るようになった。
それが全部悪いとは言えない。展示に出すなら、誰かに見られる。写真部にいるなら、講評もある。うまくなりたいなら、人の意見を聞くことも必要だ。
佐知はそれも分かっている。
分かっているから面倒だった。
誰かが悪かった話にできない。
小森谷先生が悪い。
写真部の部員が悪い。
展示が悪い。
いい写真だと言った人が悪い。
そう決められたら、もっと簡単だった。
でも、佐知はうれしかったのだ。
うれしくなって、そのあと怖くなった。
「私」
佐知は言った。
「うまくなりたかったんじゃないのかも」
「写真部なのに?」
「写真部なのに」
「じゃあ、何になりたかったんですか」
やえの質問は、まっすぐすぎた。
佐知は少し黙った。
なりたかったもの。
カメラマン。
写真家。
賞を取る人。
そういう言葉を、昔は一度くらい考えたことがある。だけど、どれもしっくりこなかった。佐知が欲しかったのは肩書きではなかった。
「別に、何にも」
佐知は答えた。
「ただ、撮ってもいい人でいたかった」
やえはその答えを飲み込むみたいに、少し視線を落とした。
「それ、分かるって言うと嘘になるかもしれません」
「うん」
「でも、嫌なのは、ちょっと分かる気がします」
「どっち」
「分かりません」
「正直すぎ」
「分かったふりしたら、また怒られそうなので」
「怒るかも」
「じゃあ、しません」
やえはそう言って、ポケットからスマホを出した。
写真を撮るのかと思った。
佐知は一瞬だけ身構えた。
やえはカメラを開かなかった。画面を見るでもなく、手の中でスマホの角をなでている。
「私は」
やえが言った。
佐知は何も言わなかった。
「私は、撮ったら終わったことにできるんです」
声は小さかった。
風で流れそうだった。
でも、佐知には聞こえた。
「終わったこと」
佐知が繰り返すと、やえはうなずいた。
「はい」
「何を」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
やえは怒らなかった。
ただ、スマホを握る指に少し力が入った。
「その日あったこととか」
「アイスの棒も?」
「アイスの棒も」
「輪ゴムも?」
「輪ゴムも」
「学校は撮らないのに」
言ってしまってから、佐知は口を閉じた。
やえは目を細めた。
責める顔ではなかった。
「終わらせたくないものは、撮らないのかもしれません」
やえはそう言った。
佐知は返事ができなかった。
屋上の向こうで、電車の音がした。
小さく、長く、町の下を通っていく。
佐知はフェンスの影を見た。
撮ったら終わったことにできる。
撮れないものは、まだ終わっていないのかもしれない。
その考えが正しいのかどうか、佐知には分からなかった。
でも、やえが分かったふりをしなかったように、佐知も分かったふりをしないことにした。
二人の間に、終わっていないものだけが静かに残った。




