第046話 スキダッタケ・二
やえの謝罪は、屋上の真ん中に置かれたままになった。
勝手に見て、すみませんでした。
言葉は短い。
短いのに、どこへ返せばいいのか分からなかった。
佐知はペットボトルのふたを開けた。飲むつもりで開けたのに、口へ運ばないまま止まる。水滴が指の間を伝って、手首の近くまで落ちた。
「昨日も謝った」
佐知が言うと、やえは少し首を傾けた。
「昨日のは、途中で曲がったので」
「曲がった?」
「私が、いい写真だと思ったって言ったから」
やえは自分で言って、自分で口を閉じた。
佐知はふたを握った。
ペットボトルの中で水が揺れる。
「曲がったっていうか」
佐知は言いかけて、やめた。
何がどう曲がったのか、説明できない。やえが勝手に検索したことは嫌だった。名前を入れて、古いページまでたどったことも嫌だった。だけどそれだけなら、昨日みたいに怒って、謝って、終われたのかもしれない。
終われなかったのは、やえが写真を見てしまったからだ。
それを、いい写真だと言ったからだ。
佐知自身も見てしまったからだ。
嫌いになれなかったからだ。
「阿久津さん」
やえが呼んだ。
「なに」
「謝るのは、ちゃんと謝ります」
「うん」
「でも」
やえはそこで止まった。
佐知は顔を上げた。
やえはフェンスの向こうではなく、佐知の手元を見ていた。水滴で濡れたペットボトル。白く曇ったラベル。強く握られてへこんだ真ん中。
やえは視線を上げた。
「でも、いい写真だと思ったのは、嘘じゃないです」
佐知は息を吸った。
昨日は、今は聞きたくないと言った。
今だって、聞きたいわけではない。
でも、やえの声は昨日より逃げていなかった。反抗しているのでも、褒め直しているのでもない。見たものを、見ていないことにはできない声だった。
佐知はペットボトルを下ろした。
「それ、言わないとだめだった?」
「だめかは分かりません」
「じゃあ言わなくてよかったじゃん」
「言わないと、昨日の『分かりました』が嘘になる気がしました」
「別に、嘘でもよかった」
「阿久津さんは、そうかもしれないです」
やえの言い方は静かだった。
佐知は眉を寄せた。
「私だけ悪いみたいに言わないで」
「言ってないです」
「言ってる」
「じゃあ、言いました」
「雑」
「はい」
やえは少しだけうなずいた。
その素直さも、佐知を困らせた。
屋上には日陰が少ない。給水塔の影は細長く、二人の間まで届かない。フェンスの網目の影だけが、コンクリートに薄く落ちている。
佐知はその網目を見た。
昔なら、たぶん撮っていた。
斜めに伸びた線。コンクリートの小さな欠け。落ちた葉っぱの裏側。何も考えずに、というほど軽くはない。でも、誰かに見せるためでも、何かを証明するためでもなく、ただ目が止まったから撮っていた。
その頃の感覚を思い出すと、胸の奥が少し痛かった。
「いいって」
佐知は言った。
やえが黙って待つ。
「いいって言われるのが嫌なんじゃない」
口にした途端、自分でも少し驚いた。
言うつもりで来たわけではない。
丸藤第六ビルへ来るつもりすら、なかった。
でも、言葉は出た。
出てしまった。
やえはすぐに返事をしなかった。
それが少しだけ助かった。
「褒められるのが嫌なんですかって聞こうとしました」
やえは正直に言った。
「聞かなくてよかった」
「はい」
「そういう単純なやつなら、たぶんもっと楽だった」
佐知はペットボトルのふたを閉めた。
飲んでいない水が、まだ重い。
「いいって言われたら、普通はうれしいでしょ」
「普通は、まあ」
「私も、うれしかったよ」
やえのまぶたが少し動いた。
佐知は自分で言った言葉に引っかかった。
うれしかった。
それを認めるのは、負けることに似ていた。
高校の廊下に貼られたプリントを、佐知は何度も見に行った。
受賞者の名前が並んでいるだけの、白い紙だった。写真そのものは載っていない。学校名と、学年と、名前と、作品名。傘立て、という文字が、他の作品名より少し小さく見えた。
昼休み、誰もいない時間を選んだつもりで立ち止まると、後ろから同じ写真部の子に声をかけられた。
「阿久津さんのやつ、いいよね」
その子は軽く言った。
軽すぎて、返し方に困った。
でも佐知は、その日ずっと、その軽い声を覚えていた。
帰り道の自転車置き場でも、家の玄関で靴を脱ぐ時も、夕飯のあとにスマホを充電器へつなぐ時も、いいよね、という声が残っていた。
嫌ではなかった。
むしろ、何度も思い出した。
思い出して、少しだけ背筋が伸びた。
その時の自分を、今の佐知はなかったことにできない。
傘立ての写真を見て、誰かが立ち止まった。名前を呼ばれた。作品名を読み上げられた。顧問の先生が少し驚いた顔をした。写真部の部員が、阿久津さんらしいと言った。
その時、佐知は確かにうれしかった。
うれしくなかったことにはできない。
「だったら」
やえが言いかけた。
佐知はやえを見た。
やえは口を閉じた。
「聞けばいいよ」
佐知が言うと、やえは少し迷ったあとで聞いた。
「だったら、なんでだめなんですか」
だめ。
その言葉が、屋上の空気に合わなかった。
何がだめなのか。誰にだめと言われたのか。自分でだめにしただけなのか。
佐知はフェンスの影を見た。
網目はきれいではない。少し歪んでいる。錆びたところもある。風でかすかに鳴っている。
それでも、見ていると撮りたくなる。
撮りたくなるのに、撮れない。
「いいって言われた写真の次は」
佐知はゆっくり言った。
やえは動かなかった。
「次も、いいって言われなきゃいけなくなるのが嫌」
言い終わると、喉が乾いていることに気づいた。
佐知は水を飲んだ。
ぬるかった。
水は喉を通ったのに、言葉はまだ屋上に残っていた。




