表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
46/96

第046話 スキダッタケ・二

やえの謝罪は、屋上の真ん中に置かれたままになった。


勝手に見て、すみませんでした。


言葉は短い。


短いのに、どこへ返せばいいのか分からなかった。


佐知はペットボトルのふたを開けた。飲むつもりで開けたのに、口へ運ばないまま止まる。水滴が指の間を伝って、手首の近くまで落ちた。


「昨日も謝った」


佐知が言うと、やえは少し首を傾けた。


「昨日のは、途中で曲がったので」


「曲がった?」


「私が、いい写真だと思ったって言ったから」


やえは自分で言って、自分で口を閉じた。


佐知はふたを握った。


ペットボトルの中で水が揺れる。


「曲がったっていうか」


佐知は言いかけて、やめた。


何がどう曲がったのか、説明できない。やえが勝手に検索したことは嫌だった。名前を入れて、古いページまでたどったことも嫌だった。だけどそれだけなら、昨日みたいに怒って、謝って、終われたのかもしれない。


終われなかったのは、やえが写真を見てしまったからだ。


それを、いい写真だと言ったからだ。


佐知自身も見てしまったからだ。


嫌いになれなかったからだ。


「阿久津さん」


やえが呼んだ。


「なに」


「謝るのは、ちゃんと謝ります」


「うん」


「でも」


やえはそこで止まった。


佐知は顔を上げた。


やえはフェンスの向こうではなく、佐知の手元を見ていた。水滴で濡れたペットボトル。白く曇ったラベル。強く握られてへこんだ真ん中。


やえは視線を上げた。


「でも、いい写真だと思ったのは、嘘じゃないです」


佐知は息を吸った。


昨日は、今は聞きたくないと言った。


今だって、聞きたいわけではない。


でも、やえの声は昨日より逃げていなかった。反抗しているのでも、褒め直しているのでもない。見たものを、見ていないことにはできない声だった。


佐知はペットボトルを下ろした。


「それ、言わないとだめだった?」


「だめかは分かりません」


「じゃあ言わなくてよかったじゃん」


「言わないと、昨日の『分かりました』が嘘になる気がしました」


「別に、嘘でもよかった」


「阿久津さんは、そうかもしれないです」


やえの言い方は静かだった。


佐知は眉を寄せた。


「私だけ悪いみたいに言わないで」


「言ってないです」


「言ってる」


「じゃあ、言いました」


「雑」


「はい」


やえは少しだけうなずいた。


その素直さも、佐知を困らせた。


屋上には日陰が少ない。給水塔の影は細長く、二人の間まで届かない。フェンスの網目の影だけが、コンクリートに薄く落ちている。


佐知はその網目を見た。


昔なら、たぶん撮っていた。


斜めに伸びた線。コンクリートの小さな欠け。落ちた葉っぱの裏側。何も考えずに、というほど軽くはない。でも、誰かに見せるためでも、何かを証明するためでもなく、ただ目が止まったから撮っていた。


その頃の感覚を思い出すと、胸の奥が少し痛かった。


「いいって」


佐知は言った。


やえが黙って待つ。


「いいって言われるのが嫌なんじゃない」


口にした途端、自分でも少し驚いた。


言うつもりで来たわけではない。


丸藤第六ビルへ来るつもりすら、なかった。


でも、言葉は出た。


出てしまった。


やえはすぐに返事をしなかった。


それが少しだけ助かった。


「褒められるのが嫌なんですかって聞こうとしました」


やえは正直に言った。


「聞かなくてよかった」


「はい」


「そういう単純なやつなら、たぶんもっと楽だった」


佐知はペットボトルのふたを閉めた。


飲んでいない水が、まだ重い。


「いいって言われたら、普通はうれしいでしょ」


「普通は、まあ」


「私も、うれしかったよ」


やえのまぶたが少し動いた。


佐知は自分で言った言葉に引っかかった。


うれしかった。


それを認めるのは、負けることに似ていた。


高校の廊下に貼られたプリントを、佐知は何度も見に行った。


受賞者の名前が並んでいるだけの、白い紙だった。写真そのものは載っていない。学校名と、学年と、名前と、作品名。傘立て、という文字が、他の作品名より少し小さく見えた。


昼休み、誰もいない時間を選んだつもりで立ち止まると、後ろから同じ写真部の子に声をかけられた。


「阿久津さんのやつ、いいよね」


その子は軽く言った。


軽すぎて、返し方に困った。


でも佐知は、その日ずっと、その軽い声を覚えていた。


帰り道の自転車置き場でも、家の玄関で靴を脱ぐ時も、夕飯のあとにスマホを充電器へつなぐ時も、いいよね、という声が残っていた。


嫌ではなかった。


むしろ、何度も思い出した。


思い出して、少しだけ背筋が伸びた。


その時の自分を、今の佐知はなかったことにできない。


傘立ての写真を見て、誰かが立ち止まった。名前を呼ばれた。作品名を読み上げられた。顧問の先生が少し驚いた顔をした。写真部の部員が、阿久津さんらしいと言った。


その時、佐知は確かにうれしかった。


うれしくなかったことにはできない。


「だったら」


やえが言いかけた。


佐知はやえを見た。


やえは口を閉じた。


「聞けばいいよ」


佐知が言うと、やえは少し迷ったあとで聞いた。


「だったら、なんでだめなんですか」


だめ。


その言葉が、屋上の空気に合わなかった。


何がだめなのか。誰にだめと言われたのか。自分でだめにしただけなのか。


佐知はフェンスの影を見た。


網目はきれいではない。少し歪んでいる。錆びたところもある。風でかすかに鳴っている。


それでも、見ていると撮りたくなる。


撮りたくなるのに、撮れない。


「いいって言われた写真の次は」


佐知はゆっくり言った。


やえは動かなかった。


「次も、いいって言われなきゃいけなくなるのが嫌」


言い終わると、喉が乾いていることに気づいた。


佐知は水を飲んだ。


ぬるかった。


水は喉を通ったのに、言葉はまだ屋上に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ