第045話 スキダッタケ・一
その次の日、佐知は丸藤第六ビルへ行かないことにした。
決めた、というほど立派なものではない。
今日は行かない。
それだけだった。
朝から部屋の空気が重かった。カーテンの隙間から入る光は白く、机の上の書類の端だけを明るくしていた。大学からの封筒は、前より少しだけ薄汚れて見える。出して、しまって、また出して、結局何もしないまま置いてあるからだ。
佐知は封筒を裏返した。
裏返しても、大学のものは大学のものだった。
スマホを持つ。
通知はない。
最近削除した項目は開かない。
開かないと決めたら、指が余計にそこへ行きそうになった。佐知はスマホを机に伏せた。伏せた画面に、自分の顔が薄く映った。眠れていない顔だった。
丸藤第六ビルへ行く理由はない。
ハルエに呼ばれていない。
やえに呼ばれていない。
喫茶ポニー跡の片付けを手伝う約束もしていない。写真係を引き受けたわけでもない。やえのアイスの棒を見守る係でもない。
行かない理由なら、いくらでもあった。
洗濯物がたまっている。シンクにマグカップが二つある。コンビニへ行くなら近いほうでいい。暑い。眠い。大学の書類を見たほうがいい。
どれも正しかった。
正しい理由がいくつも並ぶと、余計に信用できなかった。
佐知は昼過ぎまで部屋にいた。
洗濯機を回した。干した。マグカップを洗った。封筒を机の端へ寄せた。寄せただけで、中は見なかった。
ペットボトルの水がなくなった。
冷蔵庫を開ける。
麦茶もない。
買いに行くしかない。
佐知は近所のスーパーを思い浮かべた。信号を渡って、まっすぐ行けば着く。安い。涼しい。丸藤第六ビルとは反対方向だ。
反対方向。
それを考えた時点で、もう負けている気がした。
佐知はサンダルを履いた。
鍵を閉める。
階段を下りる。
外は暑かった。
アスファルトから熱が上がってくる。車の窓に白い光が跳ねている。植え込みの土は乾き、誰かが落としたレシートが歩道の端で丸まっていた。
佐知はレシートを見た。
撮りたいとは思わなかった。
思わなかったことにした。
駅前へ出ると、道は二つに分かれる。左へ行けばスーパー。右へ行けば北口のコンビニ、その先に丸藤第六ビルがある。
佐知は一度、左へ向いた。
信号は青だった。
渡ればいい。
渡らなかった。
青信号が点滅して、赤になった。
佐知は赤になった信号を見て、なぜか少しほっとした。渡れなかったのではなく、渡らなかったのだと、自分に言えるからだ。
それも嘘だ。
結局、佐知は右へ歩いた。
コンビニで水を一本買った。アイスは買わなかった。買ったらやえみたいだと思い、思ったことをすぐ打ち消した。やえはやえで、佐知は佐知だ。水のペットボトルを受け取ると、レジ横のくじの箱が目に入った。
引かない。
余計なものを増やしたくない。
店を出ると、丸藤第六ビルはいつも通り古かった。
古い、という感想が雑になってきた。
最初に見たときは、外壁のひび、看板の跡、錆びた手すり、どれも別々に見えた。今はひとまとめに古いと呼んでしまいそうになる。それが少し嫌だった。
解体告知の紙は、相変わらず入口横に貼られている。風で端が少し反っていた。透明テープの下に小さな気泡がある。
佐知はそこを見た。
写真にしたら、たぶん気泡まで写る。
思っただけで、スマホは出さなかった。
一階の喫茶ポニー跡の扉は開いていた。
中から布をはたく音がする。
「あれ」
ハルエの声だった。
佐知が入口から顔を出すと、ハルエはカウンターの向こうで古いコースターを束ねていた。髪を後ろでゆるく結び、首にタオルをかけている。扇風機が回っているのに、あまり涼しくなさそうだった。
「今日も来た」
「水、買いに」
佐知は手に持ったペットボトルを少し上げた。
ハルエはそれを見て、目だけで笑った。
「水ならどこでも売ってるよ」
「知ってます」
「知ってて来るなら、まあ、そういうことだね」
「どういうことですか」
「知らないよ。自分で考えな」
ハルエはコースターの束を輪ゴムで止めた。輪ゴムが古い紙に食い込む。佐知はそれを見て、少しだけ手を出したくなった。食い込みすぎている、と言いたくなった。
言わなかった。
ハルエは扇風機の首を少し動かした。
「やえ、上」
佐知の肩がわずかに固まった。
「聞いてないです」
「言ってないからね」
「そういう意味じゃなくて」
「やえ、謝るの下手そうな顔で上がってった」
佐知はペットボトルを持つ指に力を入れた。
ペコッ、と小さく鳴った。
「顔で分かるんですか」
「分かる分かる。あの子、悪いことしたと思ってる時、口の端が妙にまっすぐになる」
「見すぎじゃないですか」
「店やってた人間をなめちゃだめだよ。顔を見るのが仕事みたいなもんだったんだから」
ハルエは得意そうに言ったあと、すぐにコースターへ視線を戻した。
「別に上がれって言ってるんじゃないよ」
「はい」
「帰ってもいいし」
「はい」
「でも水、ぬるくなるよ」
「関係あります?」
「あることにしておきな」
ハルエはそれ以上何も言わなかった。
佐知は喫茶ポニー跡の中を少し見た。カップは棚に戻され、椅子は端に寄せられている。紙ナプキンの上には、ハルエの字で「開けとく日」と書かれたまま残っていた。
文字は、書かれた時より少しなじんでいた。
佐知は階段へ向かった。
水のペットボトルが手の中で汗をかいている。
階段の途中は暑い。外の熱が壁にたまり、上からも下からも空気が動かない。手すりを持つと、鉄が生ぬるかった。
屋上の扉は少しだけ開いていた。
隙間から光が入っている。
佐知は扉を押した。
やえはフェンスの近くに立っていた。
今日はアイスを持っていない。スマホも手にしていない。制服ではなく、いつものシャツと短い靴下だった。足元には、空のビニール袋が一枚だけ置いてある。飛ばないように、小さな石で押さえられていた。
やえは振り返った。
「来たんですね」
「水、買いに」
「屋上では売ってないです」
「知ってる」
言いながら、佐知は自分でも同じ返事ばかりしていると思った。
やえは少し黙った。
いつものように、すぐ余計なことを言わない。
佐知も近づきすぎない距離で止まった。給水塔の影が、コンクリートの上で少しずつ伸びている。昨日のアイスの棒はもうない。やえが捨てたのか、風で動いたのか、佐知には分からなかった。
やえは佐知のほうをまっすぐ見た。
口の端が、たしかに妙にまっすぐだった。
ハルエの言った通りだと思いたくなくて、佐知は視線を少しそらした。
「阿久津さん」
やえが言った。
「はい」
返事が固くなった。
やえは一度、息を吸った。
それから、昨日よりきちんとした声で言った。
「勝手に見て、すみませんでした」
佐知はペットボトルを持ったまま立っていた。
謝られたいと思っていたのか、思っていなかったのか、自分でも分からない。
ただ、やえがその言葉を持って待っていたことだけは分かった。
屋上の風は弱く、ペットボトルについた水滴だけが佐知の指をゆっくり濡らしていた。




