第044話 ノコリノコ・四
その夜、佐知は自分の名前を検索した。
やらないほうがいいと思った。
思ったのに、検索した。
阿久津佐知。
漢字を入れるだけで、候補がいくつか出た。大学のことは出ない。今の佐知のことも出ない。少し下に、市の文化センターの古いページがあった。
高校生写真展。
年度。
受賞作品一覧。
佐知はその文字を見ただけで、画面を閉じた。
閉じて、三分後にまた開いた。
ページは軽かった。古いまま残っているだけのページで、余計な装飾もない。白い背景に、作品名と学校名と名前が並んでいる。下のほうに小さな画像があった。
傘立て。
画面の中の写真は、記憶より小さかった。
小さい画像を指で拡大すると、少し荒れた。
銀色の棒の線がぼやける。青い傘の先は、記憶ほど鮮やかではない。床の水たまりも、画面の中ではただの薄い光だった。
それでも、あの日の湿った廊下は分かった。
昇降口の隅に立っていた自分も、見えないのに分かった。
名前の横に、学校名がある。
作品名の横に、自分の名前がある。
その並びが、今見ると少し他人事みたいだった。
でも、他人ではない。
銀色の棒。青い傘。床の水たまり。誰もいない廊下。
佐知は息を止めて見た。
嫌いではなかった。
それが嫌だった。
嫌いならよかった。下手だと思えればよかった。どうしてこんなものを出したのかと笑えれば、今の自分は少し楽になったかもしれない。
でも、傘立ては悪くなかった。
少なくとも、当時の佐知が何を見ていたかは分かる。雨のあとに、青い傘の先から落ちた水が床に小さく光っていたこと。誰も立ち止まらない昇降口の端を、自分だけが少し長く見ていたこと。
それは嘘ではない。
嘘ではないものが、古いページに残っている。
佐知は画面を閉じた。
最近削除した項目を開いた。
喫茶ポニー跡の写真がある。
やえの背中。
カップ。
メニュー。
斜めの紙ナプキン。
傘立ての写真と、喫茶ポニー跡の写真は似ていない。
でも、どちらも佐知が見ていたものだった。
どちらも、誰かに頼まれて撮ったわけではない。
傘立ては、そこにあったから撮った。
喫茶ポニー跡も、そこにあったから撮った。
そう考えた瞬間、佐知はスマホを伏せたくなった。
同じにしたくなかった。
昔の自分と今の自分を、簡単につなげたくなかった。
それでも、完全に切れているとも思えなかった。
傘立てを見た目と、喫茶ポニー跡を見た目。
似ていないのに、どちらも自分の中から出てきた目だった。
そのことを認めるには、まだ早すぎる。
でも、なかったことにするには、もう遅かった。
復元もしない。
完全削除もしない。
佐知はスマホを伏せた。
伏せたのに、眠れなかった。
次の日の午後、佐知は丸藤第六ビルへ行かないつもりだった。
つもりだったのに、駅前で曲がる道を間違えたみたいに北口へ出た。コンビニの前を通り、解体告知の前で止まらず、階段を上がった。
屋上には、やえがいた。
昨日のプラ椅子に座らず、給水塔の影でしゃがんでいる。手にはアイスの棒があった。食べ終わったあとの、木の棒だけだ。袋はコンビニ袋の中に丸めて入っている。
「またアイス」
佐知が言うと、やえは振り返った。
「暑いので」
昨日と同じ理由だった。
でも、声は昨日ほど明るくない。
「お腹壊すよ」
「親みたいなこと言いますね」
「親じゃない」
「知ってます」
やえは棒をコンクリートの上に置いた。
「昨日」
佐知は言いかけた。
やえはスマホを出した。
「撮ります」
「棒を?」
「はい」
やえはアイスの棒へスマホを向けた。
いつもなら、雑でも迷いがない。構えて、押して、終わる。今日は少し違った。画面を見て、少し動かし、また戻す。結局、斜めのままシャッターを押した。
カシャリ。
写真は、いつもよりブレていた。
棒は真ん中からずれている。ピントはコンクリートの砂粒に合っている。画面の端に、やえの靴の先が入っている。木の棒に残った青い色は、ほとんど分からない。
いつものやえの写真も下手だ。
でも、今日の下手さは少し違った。
勢いで押した下手さではない。何も考えずに撮った下手さでもない。考えて、少し迷って、結局どこにも合わなかった下手さだった。
佐知はそれを見てしまった。
見て、何も言えなくなった。
やえは画面を見て、眉を寄せた。
「下手」
佐知が言う前に、やえが言った。
佐知は少し驚いた。
「自分で言うんだ」
「見れば分かるので」
やえは写真を消さなかった。
画面を閉じることもしない。
ブレたアイスの棒が、そこに残っている。
佐知はしゃがんだ。やえの隣ではなく、少し離れたところに。
「昨日、ごめん」
今度は、先に言えた。
やえはスマホを見たまま答えた。
「私も、調べたのはすみません」
「うん」
「でも、いい写真だと思ったのは、まだ変わってないです」
佐知は息を吐いた。
「それ、今は聞きたくない」
「分かりました」
やえはうなずいた。
分かりました、の声は昨日より少しやわらかかった。
佐知は自分のスマホを出さなかった。
傘立ての写真も、喫茶ポニー跡の写真も、今は見なかった。
やえはブレたアイスの棒をもう一度見た。
「今日のアイスの棒です」
「ブレてる」
「はい」
「消さないの」
「消すと、昨日みたいになるので」
やえは軽く言った。
軽く言ったつもりなのだろう。
でも、佐知には軽く聞こえなかった。
やえはスマホをポケットに入れた。
屋上の風が、コンビニ袋を少し動かした。
棒はコンクリートの上に残っている。
写真にも、残っている。
いつもより雑にブレたまま。
佐知はその写真を見せてとは言わなかった。
やえも、見ますかとは聞かなかった。
それで、今日のところはよかった。
屋上の風だけが、棒の横を通っていった。




