第043話 ノコリノコ・三
やえは、分かりましたと言ったあと、本当に何も言わなくなった。
それはそれで、佐知は困った。
言い返されると思っていた。何でも撮れたら楽でいいね、と言ったときみたいに、何か刺し返されると思っていた。けれど、やえは黙って、溶けたソーダ味のアイスを見ている。
青い液が指についていた。
「手」
佐知が言うと、やえは目だけを上げた。
「何ですか」
「垂れてる」
やえは自分の手を見た。
「知ってます」
「拭けば」
「ハンカチ、あります」
そう言いながら、やえは動かない。
佐知は鞄を持っていなかった。ポケットにティッシュが入っているか確認しようとして、やめる。出したら、許されたがっているみたいになる。
何を考えているのか、自分でも嫌になった。
やえはようやくポケットからハンカチを出した。青い液を拭く。白いハンカチに、薄い水色のしみが広がった。
「すみませんでした」
やえが言った。
言い方が、硬かった。
学校で先生に言う謝罪みたいだった。佐知に向いているのに、佐知を見ていない。
「何が」
佐知は聞いた。
聞かなくてもいいのに、聞いた。
やえは少し眉を寄せた。
「調べたことです」
「それだけ?」
言ってから、最悪だと思った。
謝らせたいわけではない。謝らせても、何も戻らない。でも、口から出ていた。
やえはハンカチを握った。
「いい写真って言ったこともですか」
「それも」
「いいと思ったのは、本当です」
「だから、そういうの」
「嘘ついて謝るほうがいいですか」
やえの声が少し硬くなった。
佐知は返事をしなかった。
やえは立ち上がった。アイスの棒には、もうほとんど何も残っていない。溶けた部分を急いで食べたせいで、口元が少し青い。
「阿久津さん、自分の写真なのに」
「何」
「地雷が多すぎます」
「地雷って言わないで」
「じゃあ、踏む場所が多いです」
「同じ」
「同じです」
やえは小さく息を吐いた。
「でも、踏んだら怒るし、踏まなかったら聞かないんですねって言うし」
佐知は黙った。
それは、前に自分がやえに言われたことだった。
優しいふりと、怖いだけの境目。
今度は、それが自分のほうへ戻ってきている。
「私は」
佐知は言いかけた。
何を言うつもりだったのか分からない。
私は見られたくなかった。
私は褒められたくなかった。
私はまだ、自分の昔の写真をどう扱えばいいか分からない。
どれも正しい気がするし、どれも言い訳に聞こえる。
「ごめん」
佐知は言った。
やえはすぐには反応しなかった。
「何がですか」
今度はやえが聞いた。
佐知は口を閉じた。
同じことを返されたのだと分かった。
謝るのは、思ったより難しい。
言いすぎた、だけでは足りない気がする。何でも撮れたら楽でいいねと言ったこと。勝手に見ないでと責めたこと。いいとか言わないでと突き返したこと。どれも別々に悪い。
でも、全部並べると、謝罪というより自分の言い分を整理しているみたいになる。
佐知は、やえが謝るのが下手だと思っていた。
今は自分も大して変わらない。
やえもたぶん、同じように何を謝ればいいのか分からずにいる。
調べたこと。
見たこと。
いいと思ったこと。
その三つが同じ箱に入らないのだと、佐知は遅れて分かった。
「言いすぎた」
「昨日もです」
「昨日も」
「今日も」
「今日も」
佐知は認めた。
やえはハンカチを畳んだ。水色のしみは内側に隠れた。
「私も、調べたのは悪かったです」
「うん」
「でも、いいと思ったのは取り消しません」
佐知は目を閉じたくなった。
「取り消して」
「嫌です」
「何で」
「嘘になるから」
やえの声は、意外なくらいまっすぐだった。
そのまっすぐさが、痛い。
やえは嘘をついていない。だから余計に、佐知は逃げにくい。嘘なら怒れる。嫌味なら突き返せる。でも、ただいいと思ったと言われると、佐知は自分の中の審査員とやえを一緒にしてしまう。
一緒ではないのに。
分かっているのに。
階段の扉が開いた。
ハルエが顔を出した。手には、濡れた布巾を持っている。
「あんたたち、上で溶けてる?」
やえが振り返った。
「アイスがです」
「顔も溶けてるよ」
ハルエは屋上に出てきた。佐知とやえの顔を見て、何かを察したように眉だけ動かした。でも、深く聞かなかった。
「下、暑いから。座っときな」
それだけ言った。
「下じゃなくて上も暑いです」
やえが言う。
「じゃあ、どこも暑い」
ハルエはプラ椅子を足で起こした。
ぎ、と音がした。
「座るところがあるなら、座っときな」
佐知はプラ椅子を見た。
やえも見た。
一脚しかない。
ハルエはそれに気づいているのかいないのか、布巾を給水塔の脚に引っかけた。
「喧嘩は立ってると長くなるから」
「喧嘩じゃないです」
やえが言う。
「じゃあ、何でもいいから座っときな」
ハルエはそれ以上聞かず、階段へ戻った。
扉が閉まる。
屋上に、また二人だけが残った。
プラ椅子は一脚。
佐知もやえも、すぐには座らなかった。
「座ります?」
やえが言った。
声はまだ少し硬い。
「やえが座れば」
「阿久津さんが年上です」
「関係ない」
「じゃあ私が座ります」
やえはそう言って、すぐには座らなかった。
二人で一脚の椅子を見ている時間が、妙に長い。椅子はただの古いプラ椅子で、背もたれにひびが入っている。屋上の熱で白い部分が少し黄ばんでいた。
「半分ずつは無理ですね」
やえが言った。
「壊れる」
「ビルより先に」
「縁起悪い」
やえは少しだけ笑った。
佐知も、ほんの少しだけ息を吐いた。
仲直りではない。
それでも、さっきよりは立っていられた。
やえは結局、椅子には座らなかった。
佐知も座らなかった。
一脚の椅子だけが、二人の間に置かれたままだった。




