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第042話 ノコリノコ・二

「傘立てのやつです」


やえはもう一度言った。


言い直さなくても聞こえていた。


聞こえていたから、佐知は返事ができなかった。


カップアイスの表面が少し溶けている。白いスプーンの先に、チョコの色が薄くついたまま止まっていた。


「何で」


ようやく出た声は、低かった。


やえはソーダ味のアイスを見た。


「調べました」


「何を」


「阿久津さんの名前」


佐知はスプーンを握る指に力を入れた。


「勝手に?」


「はい」


やえは嘘をつかなかった。


嘘をつかないことが、余計にきつかった。


「何で」


「昨日、審査員って言ったので」


やえはアイスを持ち替えた。


「阿久津さん、すごい嫌な顔したから」


「だから調べたの」


「はい」


「意味分かんない」


「私も、途中でやめたほうがいいかなとは思いました」


やえは困ったように笑った。


「でも、見ました」


佐知は画面を見る前から分かった。


市の文化センター。


高校生の部。


佳作。


阿久津佐知。


傘立て。


あの水色の募集要項と、学校のアカウントと、文化センターの投稿。どこかに残っているのは知っていた。知っていたのに、見に行かないことで、なかったことにしていた。


やえのスマホに、それが出ている。


佐知は、自分でそのページを探したことがなかった。


探さなかっただけで、消えたわけではない。検索すれば出る。名前を入れれば出る。たぶん、誰でも見られる。


それは知っていた。


知っていたのに、やえの手の中にあると、急に知らない場所から引っぱり出されたものに見えた。


押し入れの奥にしまった箱を、勝手に開けられたような感じだった。


ただし、その箱には鍵をかけていなかった。


鍵をかけていないから開けていい、という話ではない。


でも、そう言うと、自分でも少し苦しくなる。


やえはポケットからスマホを出した。


「見せなくていい」


佐知はすぐに言った。


やえの手が止まる。


スマホの画面は、まだ佐知のほうを向いていなかった。


それなのに、佐知はもう見た気になっていた。青い傘の先。床の水たまり。名前の文字。小さく圧縮された、昔の自分の視線。


見たくないと言う前に、もう頭の中では見ている。


それも嫌だった。


「見ましたよね」


「私は見たくない」


「阿久津さんの写真なのに」


「だから」


声が強くなった。


やえはスマホを膝の上に伏せた。


「市の文化センターの古い展示記録でした。学校名と、名前と、作品名と、ちっちゃい写真」


「説明しなくていい」


「でも」


「いいって」


やえは、言葉を飲み込むのが下手だった。


飲み込んだつもりの言葉が、顔に出ている。言いたい。見せたい。悪いと思っている。でも、いいと思ったことも言いたい。


佐知はその顔を見て、さらに苛立った。


やえが悪意で見たならよかった。


悪意なら怒れる。


でも、やえはたぶん、佐知を知ろうとして見た。


それが余計に嫌だった。


やえは口を閉じた。


屋上の熱が、急に近くなる。給水塔の影にいるのに、首の後ろが暑い。カップアイスは溶けて、ふたの裏に水滴がついている。


「いい写真じゃないですか」


やえが言った。


悪気がないのは分かった。


分かるから、余計に嫌だった。


いい写真。


その言葉が、スマホの画面から伸びてくる。知らない人のコメントと同じように、文化センターの白い壁と同じように、佐知の手から少し離れた場所で光る。


「いいとか言わないで」


佐知は言った。


やえは目を丸くした。


「褒めました」


「褒めないで」


「何でですか」


「勝手に見ないで」


「見られる場所にありました」


「そういう話じゃない」


「じゃあどういう話ですか」


やえの声も少し上がった。


佐知は立ち上がった。カップアイスの中身が揺れる。スプーンが倒れて、ふたに当たった。


「見られる場所にあったら、何見てもいいわけ」


「そうは言ってないです」


「言ってる」


「言ってない」


「勝手に調べたんでしょ」


「はい」


「じゃあ同じ」


やえはアイスを持ったまま、膝の上のスマホを見た。


「阿久津さんだって、私の通知、見ました」


佐知は言葉に詰まった。


「あれは、勝手に出たから」


「私のも、勝手に検索に出ました」


「検索したのはやえでしょ」


「見たのは阿久津さんです」


やえはすぐに言い返した。


その速さが、佐知の中の何かに当たった。


「私は、いい写真ですねなんて言ってない」


佐知は言った。


やえの顔が少し変わった。


言いすぎた、と遅れて思った。


でも、戻せない。


「勝手に見て、いいとか言わないで」


佐知はもう一度言った。


今度は、声が少し震えていた。


やえはスマホを握った。


「じゃあ、悪いって言えばよかったですか」


「そういうことじゃない」


「じゃあ何も言わなきゃよかったですか」


「そう」


答えた瞬間、やえの目が伏せられた。


その目を見て、佐知はようやく自分が何を言ったか分かった。


何も言わなければよかった。


それは、見なかったことにしろ、という意味にもなる。


やえがいいと思ったことも、調べてしまったことも、言いづらそうにしていたことも、全部なかったことにしろと言っているようなものだった。


でも、もう言った。


ソーダ味のアイスが、手の中で溶けていた。青い液が指を伝って、手首の近くまで落ちている。


やえはそれを見て、ようやく気づいたようにアイスを持ち替えた。


「分かりました」


声は軽くなかった。


やえはアイスをもう食べなかった。


溶けていく青い部分を見て、少しだけ眉を寄せる。捨てる場所を探すように周りを見たが、屋上にはごみ箱がない。


佐知は、その仕草まで責めたくなっている自分に気づいた。


何をしても気に障る状態になっている。


それが一番嫌だった。


佐知は何も言えなかった。


屋上の向こうで、電車が鳴った。


昨日のスピーカーよりずっと遠い音なのに、今はそちらのほうがはっきり聞こえた。

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