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第041話 ノコリノコ・一

次の日、佐知は屋上で十五分待った。


待つつもりはなかった。


ただ、屋上へ来て、やえがいなくて、帰る理由を探しているうちに十五分が過ぎた。


給水塔の影は短い。フェンスは熱を持っていて、近づくだけで手のひらが少し汗ばむ。プラ椅子は横倒しになり、座面に昨日の砂が薄く残っていた。


佐知はスマホを見た。


最近削除した項目を開きそうになって、やめる。


やめたあと、また開きそうになる。


写真はまだ残っているはずだ。


喫茶ポニー跡。やえの背中。カップ。メニュー。斜めの紙ナプキン。


消したのに残っているものを、何度も確認するのは変だ。変だと思いながら、ポケットの中でスマホの角を触っていた。


屋上には、昨日の店の音がない。


片方だけ鳴るスピーカーも、カップが棚に触れる音も、やえのシャッター音もない。あるのは、遠くの車と、フェンスに当たる風と、給水塔の脚のあたりで乾いた葉がこすれる音だけだった。


静かだと、昨日の言葉が戻りやすい。


あんたみたいに何でも撮れたら楽でいいね。


言った自分の声は、思い出すたびに少し違って聞こえた。最初は怒っている声。次は焦っている声。その次は、何かを見ないふりしている声。


どれでも、やえには届いてしまった。


階段の下から足音がした。


いつものやえの足音より少し速い。上がってくる途中で一度止まり、また速くなる。扉の向こうで、金属が小さく鳴った。


やえが屋上へ出てきた。


少し遅い。


遅いというほど約束をしていたわけではない。でも、佐知は待ってしまっていたので、遅いと思った。


やえは息を切らしていない。切らしていないふりをしている。額に汗があり、前髪が少し張りついている。手にはコンビニの袋を持っていた。


「暑いですね」


やえが言った。


声が明るい。


明るすぎる。


佐知はそれを聞いて、昨日の自分の言葉を思い出した。


あんたみたいに何でも撮れたら楽でいいね。


楽なら、学校とか家とか、先に撮ってます。


やえの返事は、まだ耳の奥に残っている。


「暑いね」


佐知は返した。


短い。短すぎる。


やえはコンビニ袋からアイスを二つ出した。棒つきのソーダ味と、チョコのカップアイス。


「どっちがいいですか」


「買ってきたの」


「はい」


「何で」


「暑いので」


やえはソーダ味を少し上げた。


「あと、昨日の分」


「昨日の分って何」


「空気を悪くした分」


「それ、私でしょ」


「じゃあ、悪い空気を吸った分」


やえはチョコのカップアイスを佐知のほうへ差し出した。


佐知は受け取らなかった。


受け取れば、昨日のことがアイス一個で済むみたいになる。


受け取らなければ、もっと面倒になる。


どちらも嫌だった。


結局、佐知は受け取った。


「ありがとう」


言うと、やえは少しだけ目をそらした。


「どういたしまして」


やえはソーダ味の袋を開けた。ビニールがぺり、と鳴る。いつもならすぐ写真を撮るのに、今日は撮らなかった。棒の先を少しかじり、冷たさに目を細める。


佐知はそれを見ていた。


撮らないやえを見るのは、まだ慣れない。


やえは何でも撮る。少なくとも、佐知はそう思っていた。給水塔も、紙パックも、外行き椅子も、紙ナプキンも、メニューも、アイスも、撮る。


でも、学校は撮らない。


家も、たぶん撮らない。


今日はアイスも撮らない。


撮らないものが増えると、佐知はどこを見ればいいのか分からなくなる。


「昨日、屋上来たの」


佐知は聞いた。


やえはソーダ味を見たまま答えた。


「来ました」


「すぐ戻るって言ってた」


「戻りませんでした」


「だと思った」


「下、戻りづらかったので」


その言葉に、佐知は少しだけ息を止めた。


戻りづらい。


学校の話のときにも、やえは似たことを言っていた。心配されるほど戻りづらくなる。昨日の喫茶ポニー跡も、ほんの少しだけ、やえにとって戻りづらい場所になったのかもしれない。


佐知がそうした。


「撮らないの」


佐知が聞くと、やえはアイスを口から離した。


「撮ってほしいんですか」


「そうじゃない」


「じゃあ、撮りません」


軽い声だった。


でも、軽くないところがある。


佐知はカップアイスのふたを開けた。スプーンが袋の中に入っている。白いプラスチックのスプーン。昨日の紙ナプキンと同じくらい軽い。


二人は給水塔の影に座った。


しばらく、アイスを食べる音だけがした。


やえはいつもよりよく喋らなかった。喋らないのに、妙なテンションだけが残っている。肩が少し上がっていて、視線があちこちに飛ぶ。フェンス、給水塔、佐知の手元、コンビニ袋、またフェンス。


「何かあったの」


佐知が聞く。


やえはソーダ味をかじったまま止まった。


「何かって」


「落ち着かない」


「阿久津さんに言われたくないです」


「それはそう」


やえは少し笑った。


笑ってから、すぐ口を閉じた。


「昨日のことなら」


佐知は言いかけた。


謝るなら今だと思った。


言いすぎた。何でも撮れたら楽だなんて、言うべきじゃなかった。学校も家も撮っていないことを、知っていたのに。


でも、言葉は喉の手前で止まった。


カップアイスの端から、チョコが少し溶けてふたの裏についた。佐知はスプーンでそこをすくい損ね、白いプラスチックに茶色い筋だけ残した。


手元の小さな失敗を見ているほうが、まだ楽だった。


やえが先に言った。


「阿久津さん、昔の写真、見ました」


カップアイスの冷たさが、急に分からなくなった。


昨日の謝罪の言葉は、喉の手前で固まったまま落ちた。


床ではなく、屋上のコンクリートに。


見えないのに、踏んだら音がしそうだった。


佐知はスプーンを持ったまま、やえを見た。


やえはソーダ味のアイスを握っている。手の中で少し溶けて、青い液が棒の根元ににじんでいた。


「昔の」


佐知の声は、自分のものではないみたいだった。


やえはうなずいた。


「傘立てのやつです」


風が吹いた。


給水塔の影が、少し揺れたように見えた。


佐知の手の中で、カップアイスのふたが少しへこんだ。


冷たさはあるのに、味はもう分からなかった。


スプーンの先についたチョコが、ぽたりとカップのふちへ落ちた。落ちた音はしない。けれど佐知には、その小さな跡だけがやけに濃く見えた。

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