第040話 カシャリノシャ・四
「負けたくないんですか」
やえの言葉は、片方だけ鳴るスピーカーの音に混ざらなかった。
佐知は画面を閉じたスマホを持ったまま、カウンターの端を見ていた。メニュー表のフィルムに、窓の光が細く乗っている。さっき撮ったときと、たぶん同じ光だ。
もう写真は消した。
消したのに、光の見え方は変わらない。
「何に負けるの」
佐知は言った。
やえは少し考えた。
「分からないですけど」
「分からないの多いね」
「阿久津さんのほうが分からないので」
やえはカウンターに置いた自分のスマホを指で回した。
「撮ったら、すぐ消す。撮らなかったら、ずっと見てる。どっちも嫌そうな顔する」
「嫌そうな顔って言えば何でもいいと思ってるでしょ」
「言いやすいので」
「言いやすいだけで人の顔を片付けないで」
やえは少しだけ口を閉じた。
ハルエはカップの棚の前で手を止めている。弓削はケーブルを触るふりをしているが、たぶん聞いている。スピーカーの音だけが、知らないふりで鳴っていた。
やえは、いつもの軽い声より少し低く言った。
「阿久津さん、誰かに見られてるみたいな顔します」
その言葉で、佐知の胸の奥が冷えた。
誰かに見られている。
写真を見る席。
審査員。
市の文化センター。
佳作。
知らない人のコメント。
小森谷先生の声。
前のほうが。
阿久津さんらしかったね。
一度に戻ってきた。戻ってきたというより、ずっとそこにいたものが、名前を呼ばれて顔を上げた。
審査員なんて、今この店にはいない。
文化センターの白い壁もない。賞状もない。学校のアカウントもない。あるのは、古いカップと、片方だけのスピーカーと、斜めの紙ナプキンと、やえのスマホだけだ。
それでも、言われた瞬間、佐知は背筋を少し固くした。
誰かに見られる前の姿勢になった。
それが自分で分かったから、余計に腹が立った。
「知ったようなこと言わないで」
佐知は言った。
やえは少し目を見開いた。
「知ってるとは言ってないです」
「じゃあ言わないで」
「でも、見えてるので」
「見えてない」
「見えてます」
「見えてる気になってるだけでしょ」
佐知の声が少し強くなった。
止めたほうがいい。
分かっていた。
でも、止まらなかった。
「あんたみたいに何でも撮れたら楽でいいね」
言った瞬間、店の中の空気が落ちた。
やえの顔が止まる。
ハルエは何も言わない。
弓削の手も止まった。
スピーカーだけが、片方の音を出し続けている。急に場違いな音に聞こえた。
紙ナプキンの端が、カウンターの上で少しめくれていた。誰かの息で動いたのか、スピーカーの振動なのか分からない。黒い文字の「日」の最後のはらいだけが、ゆっくり上下している。
やえは、すぐには返さなかった。
いつもなら、何か軽く返す。楽じゃないですよ、とか、何でもではないです、とか。そういう言葉が来ると思って、佐知は身構えた。
来なかった。
やえはスマホを持った。
画面を見ずに、ポケットへ入れる。
「楽なら、学校とか家とか、先に撮ってます」
声は小さかった。
その言葉は、まっすぐ来なかった。
少し遅れて、佐知の胸に落ちた。
学校。
家。
やえが撮らないもの。
佐知は、それを知っていた。知っていたのに、何でも撮れると言った。撮れないものがあると知っていながら、やえの軽さだけを選んで刺した。
悪い、とすぐ思った。
思ったのに、すぐ謝れなかった。
佐知は口を開いた。
何か言う前に、やえは店の入口へ歩いた。
「屋上行きます」
「やえ」
ハルエが呼んだ。
やえは振り返らない。
「暑いので、たぶんすぐ戻ります」
そう言って、店を出た。
階段のほうへ足音が向かう。喫茶ポニー跡は一階だから、店を出るだけなら階段はいらない。やえは屋上へ上がるために、階段へ行った。
佐知はその足音を聞いていた。
追わなかった。
追えなかった。
ハルエはカウンターの内側で、カップを一つだけ持ち上げた。
「言いすぎたね」
声は責める感じではなかった。
それでも、佐知は顔を上げられなかった。
「分かってます」
「分かってるならいいけど」
「よくないです」
「じゃあ、よくないね」
ハルエはカップを棚に戻した。
弓削が小さく咳をした。
「俺、スピーカー止めます?」
「止めなくていい」
佐知が言った。
自分でも、何でそう答えたのか分からない。音があるほうが、沈黙をごまかせると思ったのかもしれない。
でも、片方だけの音は、ごまかしきれなかった。
ハルエが布巾を畳んだ。
「追わないの」
佐知は階段のほうを見た。
「追って何言うんですか」
「それは知らない」
「知らないんですか」
「私が知ってたら変でしょ」
ハルエは畳んだ布巾をカウンターに置いた。
「でも、言いすぎたって分かってる顔はしてる」
「顔ばっかり」
「顔に出るからね」
佐知は何も返せなかった。
ハルエはそれ以上言わなかった。
言わないまま、カップの位置を一つだけ直した。佐知が昨日そろえた向きから、ほんの少しずれる。直したのか、ずらしたのか分からない動きだった。
その小さなずれまで、佐知は見てしまう。
佐知は店を出た。
屋上へは行かなかった。階段の前で一度止まり、そのままビルの外へ出た。外の空気は暑く、商店街の影は短かった。
駅のほうへ歩きながら、スマホを開く。
何も見るつもりはなかった。
でも、指は写真アプリを開いていた。
さっきの写真は一覧にはない。
ない。
そう確認してから、佐知は下のほうにある項目を見た。
最近削除した項目。
開く。
そこに、喫茶ポニー跡の写真があった。
やえの背中。
カップ。
メニュー。
斜めの紙ナプキン。
片方だけ鳴っていたスピーカーの端。
消したはずなのに、残っている。
画面の下には、復元と完全削除の文字が並んでいた。
佐知は指を動かさなかった。
復元もしない。
完全削除もしない。
写真は、消された場所に残っている。
佐知は歩道の端で立ち止まった。
駅前の風はぬるい。
画面の中の喫茶ポニー跡だけが、さっきの光をまだ持っていた。
親指の腹には、画面を押す前の汗が残っている。信号が変わり、横断歩道の音が鳴り出しても、佐知は復元にも完全削除にも触れなかった。




