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第039話 カシャリノシャ・三

撮ったあと、佐知はすぐ画面を伏せなかった。


指が勝手に左下の小さな四角へ動く。撮ったばかりの写真が、そこに縮んでいる。


見なければいい。


見たら、何かが始まる。


そう思いながら、佐知は写真を開いた。


喫茶ポニー跡が画面に出た。


やえの背中が手前にある。肩の線は少し丸く、スマホを構えた肘が中途半端に浮いている。奥にはカップの棚。持ち手は揃いすぎず、少しずつずれている。メニュー表のフィルムには窓の光が細く入り、クリームソーダの緑が沈まずに残っていた。


紙ナプキンの「開けとく日」は斜めだ。


スピーカーは端で切れている。


弓削のケーブルも、ハルエの布巾も、少しずつ入っている。


ハルエの手は少しぶれていた。


カップを置く途中の手だから、当然だった。指の輪郭が二重になって、布巾の白も少し流れている。普通なら失敗だと思う。止まっているものを止まって見せるほうが、たぶん整っている。


でも、そのぶれがあるせいで、写真の中の店は完全な過去になっていなかった。


まだ誰かが動いている。


まだ片付けている。


まだ開けとく日の前にいる。


そう見えてしまう。


悪くない。


佐知はそう思ってしまった。


思った瞬間、喉の奥が固くなった。


悪くない。


その言葉は、画面の上に薄く乗る。誰かに言われる前に、自分で言ってしまった。自分で言ったのに、すぐ他人の声みたいになる。


前よりいいか。


阿久津さんらしいか。


消すべきか。


頭の中で、細かい声が並び始めた。


佐知は画面を閉じようとして、閉じられなかった。写真はそこにある。さっきまでなかったものが、カメラロールに入っている。やえの背中も、カップも、斜めの紙ナプキンも、片方だけ鳴るスピーカーの音も、音以外は全部そこにある。


「阿久津さん」


やえの声がした。


佐知は顔を上げなかった。


「撮りました?」


「撮ってない」


嘘だった。


言った瞬間、自分で分かった。やえもたぶん分かった。


弓削も分かった顔をした。


ハルエは分かっているのかいないのか、カップを棚に戻した。かち、と鳴る。さっき写真の中でぶれていた手が、今は普通に動いている。


写真の中の手と、今の手。


同じなのに、もう違う。


佐知はそれが嫌だった。


撮るというのは、そういうことなのだと思い出した。


同じものを、同じままにはしてくれない。残した瞬間に、さっきまでの動きから少し切り離される。切り離されたものを、あとで自分が見る。誰かも見るかもしれない。


その順番を考えるだけで、指先が重くなった。


「嘘、速いですね」


やえが言う。


佐知は返事をしない。


ハルエがカウンターの奥でカップを動かす。かち、と小さく鳴った。弓削のスピーカーは、相変わらず片方だけ鳴っている。音が途切れそうで途切れない。


佐知は画面を見た。


悪くない。


その言葉が、また戻ってくる。


写真の中のやえは、こちらを見ていない。背中だけだ。顔がない分、強すぎない。カップの棚も、メニューも、紙ナプキンも、全部少しずつ写っている。撮ろうとして撮ったのではなく、たまたまそこにあったものを、まとめて拾ったように見える。


それが嫌だった。


たまたまに見えるように整えたのは、自分だ。


佐知は親指を動かした。


画面の下のごみ箱の形を押す。


削除しますか、という確認が出る。


佐知はそれを見た。


写真はまだ背景に残っている。確認の白い枠の向こうで、やえの背中がぼんやり見える。


押さなければ残る。


押せば消える。


たったそれだけのことに、体の内側が少し冷える。


佐知は削除を押した。


写真が消えた。


消える瞬間は、あっけなかった。


紙を破る音も、フィルムが割れる音もない。画面が一度だけ動いて、一覧の隙間が詰まる。それだけだった。


店の中の空気は変わらない。カウンターの光も、メニュー表の曲がった端も、弓削のケーブルの赤い線も、そのままだった。変わったのは、佐知の親指の下だけだ。


それだけなのに、指の先には押した感触が残る。


白い確認枠。


削除の赤い文字。


その小ささが、かえって怖かった。


画面は一覧に戻る。さっきの写真があった場所には、別の写真が詰めて入っている。最近撮ったものは、ほとんどない。スクリーンショットや、母から送られた何かの写真や、メモ代わりに撮った駅前の掲示だけが残っている。


喫茶ポニー跡は、そこにはない。


ないはずだった。


「消しました?」


やえが聞いた。


今度は、佐知のほうを見ている。


「見ないで」


佐知は言った。


「見てないです」


「じゃあ聞かないで」


「顔が消しました」


「顔は黙らせて」


やえは少し困ったように笑った。


「阿久津さん、撮ると、自分で負けたみたいな顔しますよね」


佐知はスマホを握りしめた。


負け。


その言葉は軽い。やえの口から出ると、ゲームみたいに聞こえる。けれど、佐知の中では少し重かった。


撮ったら負け。


残したら負け。


悪くないと思ったら負け。


誰かに見せたくなったら負け。


「負けって何」


佐知は言った。


声が低くなった。


自分でも、そこに引っかかるとは思っていなかった。


勝ち負けの話ではない。


そう言えば済むはずだった。写真に勝ち負けなんてない。撮るか撮らないか、残すか消すか、それだけだ。


でも、本当はずっと勝ち負けにしていた。


前よりいいか。


誰かに見せて、前のほうがよかったと言われるか。


そういう小さな勝ち負けを、撮る前から並べていた。


やえはすぐには答えなかった。スマホを下ろし、カウンターの上に置く。


「分からないです」


「分からないのに言ったの」


「顔がそうだったので」


「また顔」


「顔が一番喋ります」


佐知は画面を閉じた。


閉じても、撮った写真は消えたあとの場所に残っている気がした。見えないだけで、どこかにある。そう思うと、完全に消せていないようで嫌だった。


やえはメニュー表の端を指で押さえた。


「負けたくないんですか」


佐知は答えなかった。


片方だけのスピーカーが、ざ、と一瞬だけ乱れた。


弓削がアンプのつまみに触れかけて、やめた。ハルエは布巾を持ったまま、流しの前で水を止める。


右側からも短く音が出た。


すぐ消えた。


店はまた、半分だけ鳴っていた。

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