第038話 カシャリノシャ・二
弓削のスピーカーは、最初、何も鳴らなかった。
「まあ、そうっすよね」
弓削は自分で言って、スピーカーの裏に手を回した。
赤と黒のケーブルが、カウンターの下を這っている。コンセントの位置が悪く、延長コードが必要になった。ハルエが奥から出してきた延長コードは、白かったはずの表面が薄く黄ばんでいた。
「これ、使っていいやつですか」
やえが聞く。
「使えるやつ」
ハルエが答える。
「使うやつでは」
佐知が言うと、ハルエは少し笑った。
「今日は使う」
弓削は延長コードを受け取り、スピーカーの横に置いた小さな機械につないだ。スマホではなく、古い音楽プレイヤーらしい。画面は小さく、角が削れている。
「それ、まだ使えるんですか」
やえが覗き込む。
「使えるっすよ。充電が三十分くらいしか持たないだけで」
「短い」
「三十分も鳴れば十分じゃないすか」
「開けとく日、三十分ですか」
「それは短い」
弓削は笑いながらボタンを押した。
一瞬だけ、ざ、と砂をこするような音がした。
それから、左側のスピーカーだけが鳴った。
低い音が店の中に伸びる。何の曲か、佐知には分からない。言葉のない、古いインストのような音だった。片側だけなので、音の場所が偏っている。カウンターの左にだけ空気の厚みができて、右側は少し置いていかれる。
音は大きくない。
大きくないのに、皿やカップの見え方が少し変わった。棚の白いカップは、ただ並んでいるのではなく、誰かが注文するのを待っているように見える。メニュー表の波打った端も、古いだけではなく、何度も手に取られたものに見える。
佐知は、その変化が少し怖かった。
音ひとつで、終わった場所が終わっていない顔をする。
それは嘘ではない。
でも、本当とも言い切れない。
「片方だけですね」
やえが言った。
「片方だけっすね」
弓削も認めた。
「直らないの」
ハルエが聞く。
「叩いたら一瞬直ることあります」
「叩くんですか」
やえが目を丸くした。
「昔の機械はだいたい叩けば何か起きます」
「雑」
「雑に生き残ってるんで」
弓削はスピーカーの側面を軽く叩いた。
一瞬、右側からも音が出た。
すぐ消えた。
やえが拍手した。
「今、両方でした」
「一秒くらいっすね」
「一秒店でした」
「今は半分店」
弓削はケーブルをいじりながら言った。
佐知は笑わなかったが、店の中の空気が変わったのは分かった。
音があるだけで、喫茶ポニー跡は喫茶ポニー跡ではなくなる。閉まった店の残りではなく、何かを待っている場所に見える。カップは棚に並び、メニューはカウンターの上にあり、紙ナプキンは斜めに貼られている。
どれもまだ準備中だ。
それでも、音が鳴ると、準備中にも少しだけ店の形が出る。
やえはすぐにスマホを向けた。
「何を撮るの」
佐知が聞く。
「半分店」
「写らないでしょ、音は」
「スピーカー撮ります」
やえはスピーカーを撮った。
今度は、ケーブルが手前で大きく写りすぎている。スピーカー本体は少し奥に沈み、金網のへこみだけが目立った。弓削の膝も入っている。
「俺、入ってません?」
弓削が画面を覗く。
「膝だけです」
やえが答えた。
「膝ならまあ」
「いいんですか」
「顔よりましっす」
弓削はあまり気にしていない様子だった。
やえは次にカップを撮った。
棚に並んだ白いカップ。持ち手の向きは、まだだいたい揃っている。佐知が昨日そろえたまま、ハルエは直していない。
やえの画面では、手前のカップだけが大きく、奥は暗い。棚の影が入り、白い陶器が少し灰色になっている。
「これ、阿久津さんが並べたんすか」
弓削が言った。
佐知は少しだけ顔を上げた。
「何で」
「持ち手が揃ってるんで」
「揃ってない」
「だいたい揃ってます」
やえが画面を見ながら言う。
「だいたいなら揃ってない」
「細かい」
弓削は笑った。
「俺なら全部ばらばらっすね」
「でしょうね」
佐知が返すと、弓削は傷ついた顔をしなかった。
「でしょうねって言われる信頼、ありますね」
「信頼ではない」
そんな会話をしている間にも、片方だけの音は続いていた。
「暗い」
佐知はまた言った。
やえは振り返らずに言う。
「そういうところです」
「何が」
「さっきから口だけ出るところ」
佐知は黙った。
やえはメニュー、カップ、スピーカー、紙ナプキンを順番に撮った。どれも少しずつ切れている。どれも少しずつ曲がっている。どれも、何が写っているかは分かる。
窓から光が入ってきた。
午後の光だった。ガラス戸の上のほうから斜めに入り、カウンターの端を通って、メニュー表のフィルムに当たる。反射は強すぎない。クリームソーダの緑が、白く飛ばずに少しだけ浮いた。
やえの背中が、その光の手前にあった。
スマホを構える肩。
少し曲がった背中。
棚のカップ。
斜めの紙ナプキン。
片方だけ鳴るスピーカーの音。
佐知は、撮りたいと思った。
今度は、思ってから少し遅れて手が動いた。
ポケットからスマホを出す。
画面を開く。
カメラを起動する。
指が、まだ覚えている。
佐知はやえの背中越しに、喫茶ポニー跡を画面に入れた。
やえの肩が手前にある。奥にはメニュー表。棚のカップ。斜めの紙ナプキン。スピーカーは画面の端で少し切れている。
ハルエの手も、少しだけ入った。
布巾を持った手。指の節が目立つ手。カップを置く直前で止まっている。顔は入っていない。手だけが、店の奥にある。
佐知はそれを外そうとして、やめた。
外すと、店が少しきれいになりすぎる。
入っているほうが、今に近い気がした。
切れている。
でも、入っている。
佐知は少しだけスマホを傾けた。光の反射が消える。やえの背中が画面の左に寄る。カウンターの木目が伸びる。
シャッターボタンが、指の下にあった。
押した。
カシャリ。
自分のスマホから鳴った音は、思ったより小さかった。
でも、店の中の音の中で、佐知には一番はっきり聞こえた。




