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第037話 カシャリノシャ・一

紙ナプキンは、まだ斜めだった。


開けとく日。


太い字は少しにじんだまま、カウンター奥の壁についている。テープは片方だけ強く貼られて、もう片方の角が浮いていた。ハルエは気にしていない。やえも気にしていない。弓削はそもそも見ていない。


佐知だけが、何度も見てしまう。


直したら負けみたいだった。


何に負けるのかは分からない。紙の斜めさか、やえの雑さか、ハルエの気にしなさか。たぶん全部少しずつ違う。


「阿久津さん、また見てます」


やえが言った。


「見てない」


「見てました。紙ナプキン」


「目に入る位置にあるから」


「直します?」


やえは椅子から少し身を乗り出した。


「直さない」


「速い」


「写真係と同じ扱いにしないで」


「まだ言ってません」


「顔が言ってた」


佐知が返すと、やえは少しだけ笑った。


その笑いが、前より近いのか遠いのか、判断しづらい。写真係を断ってから、やえはそれ以上強く押してこない。押してこない分、紙ナプキンの斜めさだけが、ずっと壁に残っている。


ハルエはカウンターの下から古いメニュー表を出していた。


「これ、まだあった」


透明のフィルムに挟まれたメニューは、何枚も重なっている。端が波打ち、フィルムの内側に細かい白い曇りがあった。表紙のポニーは相変わらず少し怖い。


カウンターに置かれると、フィルム同士がぺた、と小さく鳴った。


佐知はその音を聞いて、メニュー表にも重さがあるのだと思った。紙なのに、何年も同じ形で重なっていると、薄い板みたいになる。端の波打ちも、ただ曲がったのではなく、店の湿気や夏の熱を少しずつ吸ってそうなったように見えた。


表紙の下には、うっすら輪ゴムの跡が残っている。


昔は束ねられていたのだろう。輪ゴムはもうないのに、押さえられていた線だけがフィルムに残っている。


佐知はそれを見て、撮りたいとは思わなかった。


思わなかったことにした。


やえがすぐ立ち上がった。


「見ます」


「見るだけなら手伝いにならないよ」


ハルエが言う。


「見るのも労働です」


「目しか働いてない」


「目、大事です」


やえはカウンターに両手をついた。


佐知は少し離れたところからメニューを見た。近づかなくても、色だけは見える。クリームソーダの緑、ナポリタンの赤、コーヒーの茶色。昔の印刷の色で、全部が少し沈んでいる。


「喫茶店なのに、焼きうどんあります」


やえが言った。


「あったよ」


ハルエは当たり前のように答える。


「焼きそばもありましたよね」


「あった」


「麺、多いですね」


「お腹すいた人が来るからね」


「喫茶店に」


「喫茶店にも」


ハルエはメニュー表の表面を乾いた布で拭いた。フィルムの上に白い筋が残る。


やえはスマホを出した。


佐知は反射的に見た。


「撮るの」


「はい」


「今?」


「今、メニューが出たので」


やえは迷わずカメラを開いた。


メニューはカウンターの上に斜めに置かれている。上から撮ればいいのに、やえはなぜか横から構えた。光がフィルムに反射して、クリームソーダのところが白く飛んでいる。指も少し入っている。


佐知は口を閉じた。


閉じた。


閉じたつもりだった。


「反射してる」


声が出た。


やえはスマホを構えたまま止まった。


ハルエが布を持った手を止める。


弓削はスピーカーの裏をいじっていて、聞いているのかいないのか分からない。


「どこがですか」


やえが聞いた。


聞くな、と思った。


でも、聞かれると見てしまう。


「クリームソーダのところ。白くなってる」


佐知は指で示した。


「あと、端が切れる。表紙撮るなら、もう少し上から」


やえは言われた通り、スマホを少し上げた。


今度はポニーの顔が切れた。


「上げすぎ」


「細かい」


「聞いたから」


「聞きましたけど、量が多いです」


やえはスマホを下ろした。


「阿久津さん、撮ればいいじゃないですか」


「撮らない」


「また速い」


「撮らない」


「でも、今のはもう撮ってる人の口でした」


佐知はメニューから目を離した。


やえはにやにやしていない。むしろ、少し真面目な顔で佐知を見ている。


「撮ってない」


「指示が撮ってました」


「指示は撮らない」


「じゃあ何ですか」


「口が出ただけ」


佐知が言うと、やえはスマホを持ち直した。


「じゃあ、口だけ写真係」


「やめて」


「口係」


「もっと嫌」


ハルエがカウンターの奥で笑った。


「口だけでも助かるよ。メニュー、ひどい写りだとさすがに分からないからね」


「ハルエさんまで」


「私は撮らないから」


ハルエはあっさり言った。


「何でですか」


やえが聞く。


「撮るより、出すほうが忙しい」


ハルエは次のメニュー表を広げた。


「あと、写真で見るより、今汚れてるほうが気になる」


「現実派ですね」


「ほこり派」


「嫌な派閥」


やえが言うと、ハルエは乾いた布でメニューの角をこすった。


白い粉が少し落ちる。フィルムの曇りは完全には取れない。取れないものを、ハルエは深追いしなかった。


佐知なら、たぶん気になる。


気になって、こすりすぎて、余計に傷をつける。


やえはもう一度メニューへスマホを向けた。今度は少しだけ上から。光の反射はまだある。ポニーの顔も少し切れている。でも、最初よりはましだった。


シャッター音が鳴った。


カシャリ。


前より少し、大きく聞こえた。


やえは画面を確認して、うなずいた。


「メニューです」


「見れば分かる」


「分かればいいんですよね」


やえは画面を佐知に向けた。


写真は下手だった。


でも、メニューだと分かる。


佐知はそう言いかけて、やめた。


椅子のときと同じ言葉になる。言葉が同じになると、何かが前に進んだように見えてしまう。


「端、切れてる」


代わりに、佐知は言った。


「はい」


やえは素直にうなずいた。


「でもメニューです」


佐知は返事をしなかった。


やえのスマホの中に、斜めの紙ナプキンと、反射した古いメニューが増えている。


佐知のスマホは、まだポケットの中だった。


ポケットの中で、スマホは重くなった気がした。


出せば、もっとちゃんと撮れる。


そう思った瞬間、佐知は自分の手をポケットから離した。


もっとちゃんと。


その言葉は、まだ店の中に置きたくなかった。

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