第036話 アケトク・四
「やらない」
佐知はすぐに言った。
自分でも驚くくらい早かった。
やえは紙ナプキンを持ったまま、まばたきをした。
「拒否、速いですね」
「やらない」
「二回目も速い」
「係とか無理」
言ってから、係という言葉に反応したことが丸見えだと思った。
やえはそれを見逃さなかったが、すぐには突かなかった。紙ナプキンをカウンターに置き、指先で端を伸ばす。
紙ナプキンの角には、小さな折れがあった。
やえはそこをまっすぐにしようとして、余計に折り目を増やした。うまくいかないと分かると、指を離す。折れた角は折れたまま、カウンターの上で少し浮いた。
佐知はそれを直したくなった。
直さなかった。
ハルエはメニュー表を閉じた。
「写真係、いいじゃない」
「よくないです」
佐知はハルエのほうを見た。
「写真撮れる人なんでしょ」
ハルエが言う。
「撮れる人じゃないです」
「撮ってた人」
「今は撮ってないです」
「じゃあ、撮ってない人」
ハルエはあっさり言い直した。
佐知は返す言葉を失った。
撮れる人でも、撮ってた人でもなく、撮ってない人。
それなら、今の自分に合っている気もする。合っているから嫌だった。
弓削が絡まったケーブルを持ち上げた。
「写真係って、そんな重いんすか」
「重いです」
佐知は即答した。
弓削は少し目を丸くしたあと、ケーブルを見た。
「俺、係ってつくと、逆に雑に逃げたくなるんすけど」
絡まった部分を一本つまみ上げる。
「音係とか言われても、まあ鳴ったら鳴ったで、鳴らなかったらすみませんで、くらいっす」
「弓削さんのそれは軽すぎます」
やえが言う。
「軽いほうが運びやすいっすよ」
「スピーカー重そうでした」
「それは物理」
弓削はケーブルをほどきながら笑った。
佐知は笑えなかった。
写真係。
撮ったものを、あとで誰かに見せる役。
残すものを、その場で選ぶ役。
高校の部室で、係という言葉はいつも軽かった。
プリント係。鍵係。展示の当番。文化センターへ搬入する日に、誰が三脚を持つか。そういう軽いものの中に、知らないうちに期待が混ざっていた。
阿久津さんなら、という声。
佐知は棚のカップから目をそらした。
ただの開けとく日だとハルエは言った。
意味がないからやれる、とやえは言った。
それでも、写真係という言葉がつくと、急に意味が寄ってくる。撮るべきもの。撮り逃したもの。失敗したもの。
佐知は布巾をカウンターに置いた。
「私じゃなくて、やえが撮ればいいじゃん」
やえは肩をすくめた。
「私、下手なので」
「下手でも撮るでしょ」
「撮ります」
「じゃあ」
「でも、阿久津さんが見てるところと、私が見てるところ違うので」
やえは棚のカップを見た。
「持ち手の向きとか、染みの隠し方とか」
「隠してない」
「隠してました」
「見なくていい」
「見えてます」
やえの声は軽い。
軽いのに、逃げ場が少ない。
ハルエはカウンターの引き出しを開けた。中から太い黒の油性ペンを取り出す。
「じゃあ写真係は保留」
「保留もしなくていいです」
佐知が言うと、ハルエは聞こえなかったみたいに紙ナプキンを一枚広げた。
「名前だけ書いとこ」
「何の名前ですか」
やえが覗き込む。
ハルエは紙ナプキンの白い面に、ペン先を押しつけた。
開けとく日
太い字が、少しにじんだ。
紙ナプキンは薄い。ペンの黒が裏に抜けて、カウンターにうっすら移りそうだった。ハルエは気にせず、最後の「日」の縦線を少し長く引いた。
やえが笑った。
「字、強いですね」
「ペンが太い」
ハルエは答えた。
弓削が顔を上げる。
「それ、貼るんすか」
「貼る」
「イベントっぽくなるっすよ」
「ぽいだけならいいでしょ」
ハルエは紙ナプキンを持ち上げた。
開けとく日。
文字になっただけで、さっきまでふわふわしていた言葉が少し硬くなった。皿やカップやスピーカーと同じように、店の中に置かれたものになる。
佐知はそれが嫌だった。
書かれると、少し本当になる。
本当になると、逃げにくくなる。
写真係も、同じだ。
言葉になった瞬間、役割の形を持つ。やらないと言っても、言われたことは残る。撮らなかった写真みたいに、頭の中で増えていく。
ハルエは紙ナプキンをカウンターの奥に立てかけた。何かを貼るためのテープを探している。
やえはその紙ナプキンをスマホで撮った。
シャッター音が、小さく鳴る。
佐知は反射的にやえを見た。
「撮った」
「はい」
「今?」
「書かれたので」
やえは画面を見た。
「書かれたら、残ります」
佐知は紙ナプキンを見た。
開けとく日。
にじんだ黒い字。
端が少し浮いた白い紙。
撮りたい、とは思わなかった。
思わないようにしたのかもしれない。
ハルエがテープを見つけ、紙ナプキンの上の角に貼った。カウンターの内側、奥の壁に仮留めする。
紙は少し斜めになった。
やえはそれを見て、またスマホを向けた。
「二枚も撮るの」
佐知が聞く。
「貼られる前と、貼られた後は違うので」
「同じ紙でしょ」
「同じ紙ですけど、違います」
やえはシャッターを押した。
ハルエは斜めになった紙を直さなかった。
弓削のケーブルが、ようやく一本ほどけた。
「お」
弓削が小さく声を出す。
店の中に、それぞれの小さな音があった。
紙を貼る音。
スマホのシャッター音。
ケーブルが床をこする音。
カップが棚で触れ合う音。
佐知はその全部を聞いていた。
でも、スマホは出さなかった。
写真係は保留になった。
保留、という言葉も好きではない。断ったはずなのに、どこかに置かれたままになる。判断を待つ皿と同じで、捨てる場所にも使う場所にも行かない。
佐知はカウンターの奥に貼られた紙ナプキンを見た。
開けとく日。
にじんだ字は、斜めのまま壁についている。
斜めなのに、ハルエは直さない。
やえも直さない。
弓削も気にしていない。
佐知だけが、少しだけ気にしていた。




