第035話 アケトク・三
弓削のケーブルは、ほどけそうでほどけなかった。
赤と黒の線が、同じところを何度もくぐっている。弓削は床にあぐらをかき、スピーカーの横で眉を寄せていた。
「切れば早いんじゃないですか」
やえが言う。
「鳴らすための線なんで」
弓削が返す。
「鳴るか分からないんですよね」
「分からないけど、切ったらもっと分からないっす」
「たしかに」
やえは納得した顔で、紙ナプキンを箱に戻した。
ハルエはカウンターの奥で、古いメニュー表を探している。棚の下から出てくるものは、メニューではなく、割り箸の束や使いかけの伝票ばかりだった。
佐知はカップを棚に並べていた。
大きさ順にしたわけではない。色の濃さで分けたわけでもない。持ち手の欠けが目立たない向きにして、底の染みが見えないように置いているうちに、いつの間にか少し整ってしまった。
棚の奥には、うっすら丸い跡が残っていた。
昔からカップが置かれていた跡なのか、何か別の瓶があった跡なのかは分からない。佐知はそこを避けて置くか、あえて合わせるかで少し迷った。
指でなぞると、跡の外側だけ少しざらついた。内側はつるつるしている。長い間そこだけ隠れていたみたいで、薄い埃のにおいがした。
合わせると、前と同じに戻したみたいになる。
避けると、跡だけが見える。
どちらも変に意味が出る気がして、佐知は結局、半分だけ重なる位置に置いた。
中途半端だと思う。
でも、今はそのくらいがいちばん落ち着いた。
「阿久津さん、そこだけ店みたいです」
やえが言った。
「店でしょ」
佐知は返した。
「店だったところです」
「細かい」
「大事です」
やえは椅子に座り直し、足をぶらぶらさせた。
ハルエが棚の下から紙の束を引っ張り出した。
「あった」
古いメニュー表だった。
透明のフィルムに挟まれていて、端が波打っている。表紙には、喫茶ポニーのロゴと、あの少し怖いポニーの絵が印刷されていた。
ハルエは一枚をカウンターに置いた。
「焼きそば、あったんですか」
やえが覗き込む。
「あったよ」
「喫茶店で焼きそば」
「喫茶店は大体何でもある」
「じゃあラーメンは」
「ない」
「何でもじゃない」
「大体」
ハルエはメニュー表の汚れを布巾で軽く拭いた。
佐知は横から見ていた。
クリームソーダの文字は緑色で、ナポリタンは赤い。コーヒーの値段が、今見ると安すぎる。手書きで直した跡がいくつもあり、元の値段の上に細い黒線が引かれていた。
「これ、値段そのままですか」
佐知が聞くと、ハルエはメニューから目を離さずに答えた。
「売らないから、そのままでいい」
「売らないのにメニュー出すんですか」
「出すだけ」
「意味ないですね」
佐知は言った。
少し前にも似たことを言った。自分で分かっていて、また言っている。
やえがメニュー表から顔を上げた。
「意味ないから、やれるんじゃないですか」
佐知はやえを見た。
やえは、からかう顔ではなかった。メニューのクリームソーダのところを指で押さえたまま、普通に言った。
「意味あったら、ちゃんとしないといけないじゃないですか」
佐知は返事をしなかった。
弓削がケーブルをほどく手を止める。
「それ、分かるっす」
「弓削さんは意味あること避けてそうです」
やえが言う。
「初対面に近いのに刺しますね」
「二回目です」
「二回目って、まだ刺される準備できてないっす」
弓削は笑った。
ハルエはメニュー表をカウンターの上に何枚か並べた。
「意味があると、名前もつくしね」
ハルエが言った。
「名前」
佐知が聞き返す。
「復活とか、再開とか、最後の営業とか」
ハルエはメニュー表の端を押さえた。
「そういうの、私には重い」
やえが紙ナプキンを一枚、メニューの横に置いた。
「開けとく日は軽いですか」
「軽い」
ハルエはすぐ答えた。
「開けとくだけだから」
佐知は棚のカップを見た。
自分が並べたカップは、思ったより店らしかった。
背の高いものを奥へ、低いものを前へ置いた。持ち手の向きはそろっている。ひびのあるものは別にした。底の染みの濃いものは、目立たない奥へ寄せた。
誰に言われたわけでもない。
見ていると、そうしたくなっただけだ。
「阿久津さん」
やえが呼んだ。
「何」
「それ、誰よりも見てますよね」
「何を」
「カップ」
佐知は棚から目を離した。
「見てない」
「持ち手、全部右向きです」
「たまたま」
「たまたまで全部は難しいです」
弓削が横から言った。
「弓削さんはケーブルほどいてください」
佐知が返すと、弓削は両手を上げた。
「はい」
やえは椅子から立ち、棚の前に来た。
「阿久津さん、こういうの好きですよね」
「好きとかじゃない」
「じゃあ何ですか」
「気になるだけ」
「好きと近いです」
「違う」
佐知は棚の一番手前のカップを少しずらした。ずらさなくていいのに、ずらした。持ち手の影が揃う。
やえはそれを見ていた。
「写真、撮ればいいのに」
佐知は動きを止めた。
ハルエはメニュー表をめくっている。弓削はケーブルに戻っている。誰も大きく反応しない。やえだけが、佐知の手元を見ていた。
「撮らない」
佐知は言った。
「まだ言ってないです」
「今言った」
「早い」
やえは少し笑った。
そして、カウンターの上の紙ナプキンをつまんだ。
「じゃあ、阿久津さん、写真係で」
佐知はやえを見た。
「何の」
「開けとく日の」
やえは紙ナプキンを小さく揺らして、軽く言った。
軽い言い方なのに、カップの列が急に重く見えた。
やえは悪気なく、紙ナプキンの端を指で持っている。
その軽さが、かえって逃げにくい。
佐知は布巾を握る手に力を入れた。
湿った布が、指の間で冷たくなる。
布巾の端から、水が一滴、床に落ちた。
落ちた水はすぐには広がらず、床板の細い溝に沿って少しだけ伸びた。佐知はそこを拭くこともできたのに、手が動かなかった。
写真係。
その言葉だけで、棚の前の空気が少し固くなる。
佐知は布巾を握ったまま、返事をしなかった。




