第034話 アケトク・二
皿を分けていると、二階から何かを引きずる音がした。
ごと。
少し間があいて、また、ごと。
ハルエはカップを拭く手を止めなかった。
「弓削だね」
「荷物置いてる人」
やえが言う。
「その呼び方で固定しないで」
佐知が返すと、やえは皿の縁を布巾で拭きながら首を傾けた。
「じゃあ何の人ですか」
「知らない」
「知らない人」
「それも違う」
二階の音が階段へ移った。
古い階段が、一段ごとにぎし、と鳴る。椅子とは違う音だった。木と金属の中間みたいな、乾いた音。
入口に弓削が現れた。
この前より店の中へしっかり入ってきたので、顔がはっきり見えた。無精ひげというほどではないが、あごのあたりに剃り残しがある。髪は短く、前髪だけ少し寝癖のように跳ねていた。
両腕に、黒いスピーカーを抱えている。
片方の角が欠けていて、金網の部分にへこみがあった。スピーカーの上には、赤と黒のケーブルが巻きつけられている。肩からは別のケーブルが落ちそうになっていた。
スピーカーの側面には、剥がしかけのシールが残っていた。
英語のバンド名らしい文字は半分読めない。上から貼った透明テープが黄色くなって、角だけ浮いている。大事にしているのか、放っておいたのか、どちらにも見えた。
佐知は、その浮いたテープの端を見てしまう。
剥がせば汚くなる。剥がさなければ中途半端なまま残る。
弓削はたぶん、どちらでもいい顔をしている。
でも、捨ててはいない。
そのことだけは、スピーカーの重さで分かった。
「牛尾さん、これ、下でいいっすか」
弓削が言った。
「床、皿あるから踏まないで」
ハルエが答える。
「いや、床が罠だらけなんすけど」
弓削は入口で止まった。
やえが皿を少し寄せた。
「そこ通れます」
「助かります」
弓削はスピーカーを抱えたまま、妙に慎重に歩いた。足の置き場を探しながら進む姿が、少しおかしい。
「荷物置いてる人、荷物多いですね」
やえが言った。
「そのまんまっすね。否定できる荷物が今、腕にあります」
弓削は笑った。
「弓削敦志です。下の名前までいります?」
「今、言ったのでいります」
やえは真顔で返した。
弓削はカウンターの横にスピーカーを置いた。
ごん、と重い音がした。
佐知は反射的に皿を見る。割れていない。床の上の皿は、音に驚いたように少しだけ震えた。
「すみません」
弓削が言った。
「謝れるんですね」
やえが言う。
「まあ、たまには。毎回だと、何に謝ってるか分からなくなるんで」
弓削はケーブルを肩から外した。
「この前の椅子の人たちですよね」
「屋上の人から、椅子の人になりました」
やえが佐知を見る。
「進化?」
「たぶん悪化」
佐知は皿を拭きながら答えた。
弓削はスピーカーの金網を手の甲で軽く叩いた。
「これ、鳴るか分かんないっすよ」
「鳴らなくても置いとけば」
ハルエが言う。
「置いとくために持ってきたんすか」
「開けとくなら、何か鳴りそうなものあったほうがいいでしょ」
ハルエはカップを棚に並べた。
佐知は手を止めた。
「開けとく」
「うん」
ハルエがうなずく。
「壊す前に、一回くらい開けとく?」
言い方は軽かった。
今日の夕飯をどうするか聞くのと同じくらいの軽さだった。けれど、皿とカップと紙ナプキンと、弓削のスピーカーがそこにあるせいで、言葉だけが宙に浮かずに床へ落ちた。
やえは紙ナプキンを一枚持ち上げた。
「開けとく日」
「名前つけるの早いね」
ハルエが言う。
「名前じゃないです。状態です」
「状態」
佐知が復唱すると、やえはうなずいた。
「開けとく状態の日」
「長い」
弓削が言った。
「じゃあ開けとく日で」
やえはあっさり短くした。
ハルエはそれを否定しなかった。
佐知はカップの底を布巾で拭いた。染みは薄くなるだけで消えない。力を入れると、持ち手のひびが気になった。
「そういうの、やる意味ある?」
佐知は言った。
声に冷めたものが混ざったのが、自分でも分かった。
本当に意味がないと思っているわけではない。意味がありそうに見えるから、先に冷めた声を出した。
やえがこちらを見た。
弓削はケーブルをほどく手を止めた。
ハルエだけが、カップを棚に置き続けている。
「ないんじゃない」
ハルエが言った。
佐知は少し眉を寄せた。
「ないんですか」
「売るわけじゃないし、常連集めるわけでもないし」
ハルエは皿の欠けを指で確かめた。
「喫茶ポニー復活、みたいな大げさなのも嫌だしね」
「じゃあ、何で」
「開けときたいから」
ハルエはそれだけ言った。
弓削が、ほどきかけのケーブルを持ったまま笑った。
「牛尾さん、理由だいたい短いっすよね」
「長い理由で何かできたことないからね」
「それは名言っぽい」
「っぽいだけ」
ハルエは即座に切った。
やえは紙ナプキンを見ている。
佐知は布巾の中でカップを回した。
意味がないなら、やらなくていい。
そう思えば済むはずだった。
でも、意味がないと言われた途端、皿の青い線も、カップの染みも、古いスピーカーのへこみも、少しだけ扱いやすいものに見えた。
意味があるものは、ちゃんとしなければいけない。
意味がないものは、雑でも置ける。
佐知はそれを認めたくなくて、カップを棚ではなく、使わないほうの箱に置きかけた。
「それ、ひびなし」
ハルエがすぐに言った。
佐知は手を止める。
「見てたんですか」
「見てた」
「忙しいのに」
「皿より人の手元のほうが危ない」
ハルエは平然としていた。
佐知はカップを棚に置き直した。
弓削がケーブルをほどききれず、少し絡ませている。
やえはその絡まったケーブルを撮った。
「撮らないでくださいよ」
弓削が言う。
「絡まってるので」
「理由になってる?」
「なってます」
やえは画面を確認した。
佐知は、その写真を見たいと思った。
でも、言わなかった。




