第033話 アケトク・一
喫茶ポニー跡の床に、古い皿が並んでいた。
白い皿。縁に青い線が入った皿。カレー皿らしい深さのある皿。小さい受け皿。重ねられずに、床の上へばらばらに置かれている。
佐知は入口で足を止めた。
店は開いていない。
ガラス戸は半分だけ開いているが、のれんも看板も出ていない。カウンターの中にはハルエがいて、段ボール箱からカップを取り出していた。
「来たね」
ハルエが言った。
「呼ばれてないです」
佐知は答えた。
「呼んでないのに来たね」
「そうですけど」
「じゃあちょうどいい」
ハルエはカップを一つ、カウンターの上に置いた。
ちょうどいい、と言われた時点で嫌な予感はした。
やえはすでに店の中にいた。壁際の椅子に座り、床に並べられた紙ナプキンを一枚ずつ見ている。制服ではなく、薄い灰色のTシャツに黒いスカートだった。平日ではないのか、学校へ行かない日の服なのか、佐知には分からない。
分からないものとして置いておくことにした。
「阿久津さん、皿です」
やえが言った。
「見れば分かる」
「この前の椅子より割れやすいです」
「それはそう」
「重さも違います」
「運ぶ前提?」
やえは床の皿を見た。
「たぶん」
ハルエがカウンターから顔を上げた。
「二人とも、手伝って」
佐知はため息をつく前に、ハルエに見られた。
「ため息は皿拭いてから」
「まだしてません」
「顔がしてる」
「顔は自由では」
「手も自由に動かして」
ハルエは布巾を二枚、カウンターの上に置いた。
やえが立ち上がり、布巾を一枚取った。
「何するんですか」
「洗う前に、ほこり落とす」
ハルエは段ボール箱を足で少しずらした。
「全部洗ってから拭くと時間かかるから、先に分ける。割れてるのと、割れてないの。使うのと、使わないの」
床の上には、すでに三つのまとまりができかけていた。
カウンター寄りには、ひびのない皿。
壁際には、縁の欠けた皿。
その間に、判断を待つ皿。
判断を待つ皿、というものがあるのが少しおかしかった。皿はただ皿として床に置かれているだけなのに、人が迷うと、皿にも保留の場所ができる。
やえは欠けた皿を一枚持ち上げて、欠けたところから向こうを覗いた。
「穴じゃないよ」
佐知が言うと、やえは皿を下ろした。
「欠けにも使い道があるかと思って」
「ないと思う」
「ですよね」
「使うんですか」
佐知は聞いた。
聞いた瞬間、椅子のときと同じ言葉が戻った。
使えるのと、使うのは違う。
ハルエはそれを覚えているのかいないのか、カップの底を見ながら言った。
「使うかもしれない」
「店、閉まってますよね」
「閉まってるね」
「じゃあ」
「閉まってても、皿は洗える」
ハルエは平然としていた。
やえは布巾で紙ナプキンの端をなでた。
「紙も拭きます?」
「それは拭かない」
「ですよね」
やえは紙ナプキンをつまみ上げた。
喫茶ポニー、と小さく印刷されている。端に、馬の横顔らしい線画があった。古いデザインなのに、思ったよりかわいくない。目が少し怖い。
「これ、馬ですか」
やえが聞いた。
「ポニー」
ハルエが答える。
「ポニーと馬って違います?」
「小さい馬」
「雑」
「だいたい合ってる」
ハルエはカップを佐知に渡した。
カップは、段ボールの匂いがした。
陶器そのものの匂いではなく、長くしまわれていた紙の匂い。押し入れから出したアルバムに似ていると思って、佐知はすぐに考えるのをやめた。
写真のことに寄せる必要はない。
ただ、古いカップが段ボールから出てきただけだ。
「割れてないか見て」
佐知は受け取った。
カップは白く、底に茶色い染みが残っている。洗っても取れなかったのか、洗う前なのか分からない。持ち手の内側に細いひびがあった。
「これ、ひびあります」
佐知が言うと、ハルエは手を伸ばした。
「そこは使わないほう」
「捨てるんですか」
「まだ決めない」
「使わないのに」
「使わないと捨てるも違う」
ハルエは当たり前のように言った。
佐知はカップを見た。
ひびの入った持ち手。
染みの残った底。
使わない。捨てない。決めない。
それが許されることのように、カウンターの上に置かれている。
やえは紙ナプキンをスマホで撮っていた。
「撮るの早い」
佐知が言うと、やえは画面を見せた。
「ポニーの目、怖いです」
写真の中のポニーは、たしかに少し怖かった。紙ナプキンが斜めで、端が切れている。けれど、印刷のかすれまで写っている。
「また下手」
「はい」
「認めるのも早い」
「慣れました」
やえは紙ナプキンを床へ戻した。
ハルエは皿を二枚、カウンターに並べた。
「今度、一日だけ開けようかなと思って」
佐知は布巾を持ったまま止まった。
「店をですか」
「店じゃないよ」
ハルエは考えるように、カウンターの上のカップを見た。
「店だったところ」
やえが紙ナプキンをつまんだまま顔を上げる。
「お客さん来るんですか」
「来ても来なくてもいい」
「営業許可とか」
佐知が言いかけると、ハルエは手をひらひら振った。
「そういうのはやらない。コーヒー売るとかじゃない」
「じゃあ何を」
「開けとくだけ」
ハルエは皿を一枚、佐知のほうへ押した。
「壊す前に、ちょっとだけ」
佐知は皿を受け取った。
縁の青い線が、指の下で少しざらついた。
店ではない。
でも、店だったところを開けておく。
言葉だけなら簡単なのに、床に並んだ皿とカップと紙ナプキンがあるせいで、急に手間のかかることに見えた。
やえは布巾を持ち直した。
「手伝わされるやつですね」
「もう手伝ってるでしょ」
ハルエが言う。
佐知はカップの底を見た。
染みはまだ取れていない。
取れるのかも、使うのかも、捨てるのかも、まだ分からない。
分からないまま、佐知は布巾でカップの外側を拭いた。




