第032話 フセリノセ・四
やえの言葉は、屋上の暑さの中でしばらく残った。
優しいふりと、怖いだけの境目。
佐知はそれを言い返せなかった。違うと言うには心当たりがありすぎるし、そうだと認めるには、やえの前で何かを差し出しすぎる気がした。
やえは給水塔の影へ移動した。
影の中は少しだけましだった。コンクリートの熱は残っているが、日差しが直接当たらないだけで息がしやすい。
「座れば」
やえが言った。
「命令?」
佐知が聞くと、やえは首を振った。
「提案です」
「提案の顔じゃない」
「阿久津さんが立ってると、先生みたいなんで」
「先生」
「立ってる大人、だいたい先生です」
佐知は少し迷ってから、給水塔の脚から離れた場所に座った。制服のやえと並んで座ると、年の差が変に目立つ気がした。佐知の服は洗いざらしのシャツと黒いパンツで、大学生にも、ただの近所の人にも見える。
やえの制服は、逃げていることを隠さない。
隠さないというより、隠しきれない。
やえは膝を立て、スマホをその上に置いた。画面は上を向いているが、何も開いていない。通知もない。黒い画面に、空の白さだけがぼんやり映っていた。
「学校の話、苦手ですか」
佐知が聞いた。
やえは目だけを動かした。
「阿久津さんがですか、私がですか」
「やえが」
「苦手です」
あっさり答えた。
「じゃあやめる」
「もうだいぶしましたけど」
「ごめん」
佐知が言うと、やえは少しだけ驚いた顔をした。
「謝るんですか」
「謝るくらいはする」
「もっとしない人かと思ってました」
「どういう人だと思ってるの」
「嫌な顔して黙る人」
「だいたい合ってる」
「ですよね」
やえは膝の上のスマホを両手で握った。
強く握っているようには見えない。けれど、指の先だけが白くなっている。親指の爪は短い。爪の横に、小さなささくれがあった。
その手を、佐知は撮りたいと思った。
思った瞬間、自分でも嫌になった。
きれいな手ではない。
白くもないし、細くもない。爪の横は荒れているし、手の甲には屋上でついたほこりが薄く残っている。制服の紺とスマホの黒に挟まれて、指だけが少し浮いて見えた。
浮いて見えたから、撮りたいと思った。
そう言えば少しはましに聞こえる気がした。けれど、ましに聞こえる理由を探している時点で、もうましではなかった。
膝の上のスマホ。
伏せられる前の画面。
学校の通知を消したあとでも、手の中に残っている黒い板。
やえの逃げ方が、そこに全部見える気がした。見える気がしただけだ。勝手に見た気になっているだけかもしれない。
佐知はポケットのスマホを意識した。
出せば、撮れる距離だった。
給水塔の影で、やえの手には直射日光が当たっていない。コントラストも強くない。背景は制服の紺色で、スマホの黒が沈む。悪くない。悪くないと思ってしまった自分が、また嫌だった。
相手が弱っている形を、写真にしてどうする。
撮れば、分かった気になれる。
撮れば、自分は見ていたと言える。
でも、それはやえのものではなく、佐知の安心になるだけかもしれない。
「何ですか」
やえが聞いた。
佐知は目を上げた。
「何が」
「手元、見てます」
「見てない」
「見てました」
やえはスマホを少し持ち上げた。
「撮りたい顔してました」
佐知は息を止めた。
「してない」
「してました」
「その顔、どういう顔」
「嫌そうな顔です」
やえは即答した。
佐知は黙った。
やえは一度、自分の手元を見た。
それから、佐知のポケットのあたりを見る。
「カメラ、開いてないですね」
「開いてない」
「でも、頭の中では構えてましたよね」
「何それ」
「阿久津さん、撮る前に疲れる顔します」
佐知は返せなかった。
撮る前に疲れる。
その言い方は間抜けだった。間抜けなのに、正確だった。
やえはスマホを膝へ戻した。今度は握らず、ただ置いた。手は両側に離れている。
「撮ってもいいですよ」
やえが言った。
佐知はやえを見た。
「何を」
「スマホ」
「撮らない」
「早い」
「撮らない」
佐知はもう一度言った。
やえは眉を少し上げた。
「私がいいって言っても?」
「いいって言われたら、余計に撮れない」
「面倒ですね」
「知ってる」
やえは小さく笑った。
その笑いは、いつもより薄かった。からかいきれない分だけ、屋上の空気にまぎれる。
「阿久津さん、自分が撮られるの嫌がるくせに」
「うん」
「人の弱そうなとこも撮らないんですね」
「弱そうなとこ、って言い方」
「違いますか」
佐知は答えなかった。
違わない。
違わないから、答えにくい。
やえはスマホを伏せた。今度は通知を隠すためではなく、画面に映る空を消すためのように見えた。
「撮らない写真ばっか増えてません?」
やえが言った。
声は軽かった。
けれど、佐知は笑えなかった。
撮らなかった椅子。
撮らなかった床の黒い丸。
撮らなかったやえの横顔。
撮らなかった膝の上のスマホ。
どれもカメラロールにはない。ないのに、頭の中では増えていく。消せない写真ばかりが、撮らないまま残っていく。
佐知はポケットの中でスマホに触れた。
出さなかった。
やえも、それ以上は何も言わなかった。
沈黙は、気まずい形をしていた。
けれど、やえは立ち上がらなかった。佐知も立たなかった。給水塔の影の中で、二人分の膝と靴だけが並ぶ。近すぎるわけではない。遠いとも言いにくい。
やえのスマホは伏せられたままだ。
佐知のスマホはポケットの中にある。
どちらも画面は見えない。
それで少しだけ、助かった気がした。
見えないものを、そのままにしておける時間がある。
長くは続かない。通知はまた来るし、佐知はまた何かを見てしまう。やえも、たぶんまた軽く処理する。
それでも今だけは、画面が伏せられている。
その黒い背面だけを見ていればよかった。
屋上の向こうで、昼の電車が短く鳴った。




