第031話 フセリノセ・三
「行くタイミングって、そんなに逃すもの」
佐知は聞いた。
聞いたあとで、自分が大学へ行くタイミングを何度も逃していることを思い出した。改札の前。駅前のベンチ。コンビニのレシート。休学延長の書類。
やえは、屋上のふきんを指でつついた。
「逃しますよ」
「毎日?」
「毎日じゃないです」
「じゃあ」
「二日に一回とか」
「多いね」
「多いです」
やえはあっさり認めた。
佐知は少し拍子を外された。言い訳をされるより、認められるほうが次の言葉を失う。
「行った日は、行けるんです」
やえは続けた。
「普通に?」
「普通かは分からないですけど、席に座るくらいは」
「授業も」
「聞いてるふりはできます」
「ふり」
「全部聞いてる人のほうが少なくないですか」
「それは、まあ」
佐知は高校の教室を思い出した。窓際の席。机の端に置いた借り物のカメラ。先生の声を聞きながら、光の当たり方ばかり見ていた時間。
やえにも、机があるのだろう。
その机が空いている日がある。誰かがそこを見る。見ないふりをする。そのどちらも、やえには分かってしまうのかもしれない。
屋上の空気は動きが鈍い。風は吹いているのに、熱だけが残る。給水塔の影はさっきより短くなり、プラ椅子の背もたれの一部だけを覆っていた。
やえは制服の袖を戻し、またまくった。決まらないのか、暑いのか、どちらでもありそうだった。
「朝、行かないって決めるんですか」
佐知が聞くと、やえは首を横に振った。
「決めないです」
「じゃあ」
「行けたら行く、みたいにして、行けない」
やえは給水塔のほうを見た。
「制服着る日もあります。鞄持つ日もあります。駅まで行く日もあります」
「駅まで」
「行って、帰る日もあります」
その言い方は淡々としていた。
佐知は、やえが駅の改札前に立っているところを想像した。制服で、スマホを持って、通知を見たり伏せたりしながら、改札の向こうを見ている。自分が大学の改札前で止まったときと似ているのかもしれない。
似ていると思うことが、少し嫌だった。
勝手に重ねるのは失礼な気がしたし、重ねなければ見ないふりになる気もした。
「先生とか、友達とか」
佐知が言うと、やえは笑わなかった。
「心配してくれます」
「それは」
「いいことです」
やえが先に言った。
「分かってます」
佐知は口を閉じた。
やえはスマホを取り出した。何も撮らず、ただ手の中で回した。黒い画面が日差しを拾って、指の形を薄く映す。
「心配されるほど戻りづらくなるんです」
やえが言った。
佐知はやえを見た。
やえは佐知を見ていない。伏せるわけでも、隠すわけでもなく、フェンスの向こうへ目を置いたまま言った。
「最初は、今日どうしたの、くらいじゃないですか」
「うん」
「次は、大丈夫、になる」
「うん」
「その次は、無理しなくていいよ、になる」
やえはスマホを両手で持った。
「それで、戻ったら、みんなが優しい顔するんです」
佐知は返事をしなかった。
「優しい顔されると、こっちが悪いことしたみたいになるじゃないですか」
やえは少し笑った。
「実際、迷惑かけてるんですけど」
「迷惑って」
「出席とか、プリントとか、班決めとか、席とか」
やえは指を一本ずつ折るように言った。
「ああいうの、ちょっとずつ場所取るんです。私がいない分の場所」
やえはスマホを伏せたまま、膝の上で少し回した。
「グループの予定とかも、あとから見ます」
「連絡来るの」
「来ます。来なかったら来なかったで、それも分かります」
佐知は何も言えなかった。
来る通知も、来ない通知も、どちらも形になる。画面に出るものと、出ないもの。やえはその両方を見ている。
「心配してくれる人に、嫌な顔したくないんです」
やえの声は少しだけ低くなった。
「でも、嫌な顔になります」
「それは」
「それも悪いことした感じになる」
佐知は、大学のメールを思い出した。
休学期間。手続き。期限。母の通知。
自分が決めないことで、誰かの場所に余計なものを置いている。そう言われたわけではないのに、そんな形で胸の奥に落ちた。
「でも、戻らないと」
佐知は言って、言葉を止めた。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。戻らないと困る。戻らないともっと戻れなくなる。戻ったほうがいい。
全部、正しい顔をした雑な言葉だった。
やえは佐知の止まった口元を見た。
「戻らないと、何ですか」
「何でもない」
「言いかけました」
「言うほどのことじゃない」
「じゃあ言わないほうがいいです」
やえの声はきつくない。
きつくないから、逃げ場が少なかった。
佐知はフェンスの錆びを見た。茶色い粉が網目の接合部にたまっている。指でこすれば落ちるだろう。落ちた粉は、コンクリートの上でまたただの汚れになる。
「家は」
佐知は言いかけた。
今度は、自分で止めた。
やえの家。
学校に行かない日の、朝。制服を着るのか、着ないのか。家を出るのか、出ないのか。誰が何を言うのか。聞いてどうするのか。
佐知は口を閉じた。
やえはその沈黙を見逃さなかった。
「聞かないんですね」
やえが言った。
佐知はやえを見た。
「聞いたほうがいいの」
「別に」
やえはスマホの角を親指でこすった。
「聞かれたら嫌な顔します」
「じゃあ聞かない」
「そういうとこですよね」
やえは笑った。
いつもの軽い処理に見える笑いだった。でも、口の端だけが少し遅れて戻った。
「どういうとこ」
佐知が聞くと、やえは空を見た。
「優しいふりと、怖いだけの境目が薄いとこ」
佐知は何も言えなかった。
やえはスマホをポケットにしまう。
その動きはいつも通り雑だった。けれど、ポケットに入れる直前、指が画面を一度だけ強く押さえた。
佐知は見ていた。
見ているだけだった。




