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第030話 フセリノセ・二

やえは、伏せたスマホをしばらくそのままにしていた。


膝の上で、黒い長方形が布を押さえている。制服のスカートには細かいほこりがついていた。屋上のコンクリートに直接座るからだ。


佐知はそれを払ったほうがいいと思った。


言わなかった。


「麦茶、買ってくればよかった」


佐知が言うと、やえはスマホから手を離した。


「今から買いに行けばいいじゃないですか」


「暑い」


「屋上にいる人の台詞じゃないです」


「屋上にいるから言ってる」


やえは少しだけ笑った。笑ってから、伏せたスマホをひっくり返す。通知の帯は消えていた。何もなかったみたいに、いつものロック画面だけが出ている。


やえはカメラを開いた。


「何撮るの」


佐知が聞く。


「雲」


やえは空へスマホを向けた。


空は白っぽい青で、雲は薄い。撮っても、たぶん何も写らない。フェンスの網目が画面の端に入り、給水塔の脚が少しだけ斜めに入っている。


やえは一枚撮った。


「雲、薄くない?」


佐知が言う。


「薄い雲です」


「見える?」


「見えます。たぶん」


やえは画面を確認しないで、今度はフェンスに寄った。錆びた金網の穴から、駅前の通りが小さく見える。人はいるが、顔までは分からない。バス停の屋根だけが強く光っていた。


やえはフェンスを撮った。


金網にピントが合っているのか、向こうの通りに合っているのか分からない写真だった。シャッター音だけが短く鳴る。


「何でも撮るね」


佐知が言うと、やえはスマホを下ろさずに答えた。


「何でもじゃないです」


「今のは何」


「フェンス」


「フェンスを撮る必要」


「あります」


「何で」


「目の前にあるので」


佐知は返事をしなかった。


それは理由になっているようで、なっていない。けれど、やえにとっては十分らしい。


やえは屋上のすみに歩いていった。古いプラ椅子の下に、茶色い輪ゴムが落ちている。何かの袋を留めていたものだろう。日差しで少し硬くなって、丸ではなくいびつな形に曲がっていた。


やえはしゃがんだ。


「それも?」


佐知が聞く。


「輪ゴムです」


「見れば分かる」


「分かるなら撮れます」


やえは輪ゴムを撮った。


近すぎて、画面の中ではただの茶色い線に見えた。コンクリートの砂粒のほうが目立つ。


「下手」


佐知は思わず言った。


やえは顔を上げる。


「昨日からずっと言いますね」


「言ってる」


「言い慣れてきました?」


「慣れたくはない」


やえは立ち上がり、手のひらをスカートで軽く払った。ほこりが伸びる。白い筋がまた増えた。


「下手でも輪ゴムです」


「椅子のときもそれ言ってた」


「便利なので」


やえは屋上の扉のほうへ歩いた。


扉の横に、ハルエが置いていったらしい古いふきんがかかっていた。水道の蛇口に巻いてあったものを、誰かが干したのだろう。端がほつれて、青い線が一本だけ残っている。


やえはそれも撮った。


雲。


フェンス。


輪ゴム。


ふきん。


通知を伏せた同じスマホで、やえはそれらを迷わず撮る。


やえのカメラロールは、少しだけ見えた。


画面を閉じる前の一瞬、四角い写真が並ぶ。空の白、フェンスの茶色、コンクリートの灰色、紙ナプキンの白、椅子の赤茶。似た色ばかりなのに、全部違うものとして小さく収まっている。


佐知は、学校らしいものを探した。


校門。教室。黒板。下駄箱。机。友達の手。そういうものが一枚くらい混ざっていないか、勝手に目が探した。


見つからなかった。


見つからなかったことを、安心していいのか、気にしたほうがいいのか分からない。勝手に探した時点で、もうよくない気もした。


佐知は、やえの手元を見ていた。


スマホは軽そうに動く。構えて、押して、下ろす。それだけの動作に、やえはほとんどためらわない。撮るものに価値があるかどうか、きれいに見えるかどうか、あとで誰に見せるかどうか。そういうものを通さずに、目の前のものを画面に入れていく。


なのに、さっきの通知だけは伏せた。


「学校では撮らないの」


佐知は言った。


言ってから、また踏んだと思った。


やえはふきんの写真を見ていた。画面を拡大して、青い線のほつれを指でなぞるように動かしている。


「学校」


やえが復唱した。


「うん」


「学校の何をですか」


「何でも」


「何でもは撮らないです」


「さっき自分で言ってた」


「阿久津さんが言ったんです」


「フェンスも輪ゴムも撮るから」


「フェンスと輪ゴムは学校じゃないので」


やえの声は軽い。


軽いけれど、軽く処理しているのが分かる。雲の写真にピントが合っていないのと同じくらい、分かってしまう。


佐知はフェンスのほうへ視線を逃がした。


「行ってないの」


「今日ですか」


「今日も」


言い直して、少し強くなったと思った。佐知は眉を寄せる。


やえはふきんの写真を閉じた。


「行くタイミング逃しただけです」


拍子抜けするくらい、あっさり言った。


「タイミング」


「はい」


「朝、起きられなかったとか」


「それもあります」


「電車に乗れなかったとか」


「それもあります」


「他にも?」


「あります」


やえはスマホを制服のポケットに入れた。


「でも、大きい理由っぽく言うと、大きい理由みたいになるので」


佐知は言葉を探した。


見つからなかった。


やえは屋上の端から空を見た。


「行くタイミング逃しただけです」


同じ言葉をもう一度言った。


今度は少しだけ、雑に聞こえなかった。


「そんな感じで済むの」


佐知が聞くと、やえは空を見たまま肩をすくめた。


「済んではないです」


「じゃあ」


「済んでないけど、説明すると大ごとになるので」


やえはフェンスの錆びたところにスマホを向けた。


「大ごとになったら、戻る場所が大ごとになるじゃないですか」


シャッター音が鳴った。


今度の写真は、錆だけだった。


やえは画面を確認して、すぐ閉じた。


「錆は、説明いらないので楽です」


佐知はフェンスを見た。


説明しなくても、錆びているものは錆びている。


学校は、そうはいかないのだと思った。

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