第029話 フセリノセ・一
平日の昼前に丸藤第六ビルへ行く理由は、佐知にはなかった。
大学へ行く理由も、家にいる理由も、コンビニへ行く理由も、それぞれ足りない。足りないものを比べているうちに、足は駅の北口へ向いていた。
十一時二十分。
スマホの画面に出た時刻を見て、佐知は少し立ち止まった。
大学の授業なら、一限はとっくに始まっている。二限にも遅い。休学中の自分が考えることではないと思っても、時刻だけは妙に学校の形をしている。
丸藤第六ビルの前は、昼なのに暗かった。
隣の建物の影が看板にかかって、丸藤第六ビルの「六」の字だけが見えにくい。解体告知の紙は、端が少し反っていた。九月末日まで、という文字はまだ黒い。
一階の喫茶ポニー跡は閉まっていた。
ガラス戸の奥に、昨日寄せた椅子が見える。壁際に並んだ背もたれが、店の奥で小さく並んでいる。外行きの三脚目はもう見えなかった。夕方までに外に出す、とハルエは言っていた。
本当に外に出たのか。
佐知は確認しようとして、やめた。
確認して何になるのか分からない。なくなっていたら嫌だし、まだあっても嫌だ。どちらも少し面倒くさい。
入口の横に、白いビニールひもが落ちていた。
粗大ごみの札を結ぶのに使ったものかもしれない。そう思うだけで、椅子の座面の裂け目が頭に戻ってきた。
ガラス戸には、佐知の顔が薄く映っていた。
日差しのせいで目を細めている。髪は少しはねている。鞄を持っていない自分は、昨日より軽く見える。軽いのに、どこへ行くにも中身がない。
椅子が一脚なくなった店内は、昨日より広かった。
たった一脚分の空きなのに、床の色が違うところだけが目につく。残された椅子のほうではなく、なくなったところを見てしまう。
やえの写真なら、たぶん外行き椅子はまだ残っている。
佐知のカメラロールには、何もない。
佐知は階段を上がった。
二階の踊り場で、何かの箱が壁際に寄せられていた。古いスピーカーのようにも、ただの黒い箱のようにも見える。ケーブルが一束、上に置かれている。
弓削のものだろうか。
触らないように、佐知は横を通った。三階へ上がる階段は、昼の光が少しだけ入っている。屋上へ続く扉の前で、熱のこもった空気が足首にまとわりついた。
扉を押すと、屋上に出た。
やえがいた。
錆びたフェンスのそばに座って、スマホを両手で持っている。制服のスカートがコンクリートに広がり、膝の上には薄いハンカチがのっていた。白いシャツの襟元が少し曲がっている。リボンは緩く結ばれて、風が吹くたび片方だけ揺れた。
制服でいること自体は、前から見ている。
それなのに、平日の昼前に見る制服は、別の意味を持ってしまう。
「今日も来たんですか」
やえが顔を上げずに言った。
「そっちこそ」
佐知は屋上の扉を閉めた。
「私はだいたいいます」
「だいたい、って」
「だいたいです」
やえは画面を見たまま答えた。
佐知はフェンスの内側に立った。屋上は暑い。コンクリートの照り返しが足の裏から上がってくる。給水塔の影だけが少し濃く、影の端にプラ椅子が一脚倒れていた。
やえは制服の袖を少しまくっていた。腕に、日焼け止めの塗り残しのような白い筋がある。本人は気にしていない。
「学校」
佐知は言いかけて、止まった。
やえの親指が画面の上で止まる。
「何ですか」
「いや」
「言いかけましたよね」
「暑いねって」
「学校って言いませんでした?」
やえは顔を上げた。
目が細い。暑さのせいか、佐知の言い直しが雑だったせいか、判断しにくい。
「言ってない」
「言いました」
「聞こえたなら聞かないで」
「聞こえたから聞いてます」
やえはスマホを膝に置いた。
佐知はフェンスに触れない距離で立った。鉄は熱くなっている。触らなくても分かる。
「平日だから」
佐知は言った。
「はい」
やえはうなずいた。
「昼だし」
「昼ですね」
「制服だし」
「制服ですね」
「学校は」
最後まで言ってしまった。
言った瞬間、踏み込んだというより、足元の線を見ないで踏んだ感じがした。屋上には線などない。コンクリートが続いているだけだ。それでも、やえの膝の上に置かれたスマホが、少し遠く見えた。
やえはすぐには答えなかった。
風が吹いた。給水塔の下で、乾いた葉が一枚動く。誰かが持ち込んだらしいビニール袋が、フェンスのすみで膨らんでしぼんだ。
「阿久津さん、大学は」
やえが言った。
佐知は口を閉じた。
やえは意地悪そうには見えなかった。普通に返しただけの顔だった。聞かれたから、似た形のものを返した。それだけのように見える。
「休学中」
佐知は答えた。
「知ってます」
「じゃあ聞かないで」
「阿久津さんもです」
やえはスマホを持ち上げた。
そのとき、画面が明るくなった。
短い通知音は鳴らなかった。音は切っているらしい。ただ、画面の上に細い帯が出た。佐知の位置から文字は全部読めない。それでも、校名らしい漢字と「進路希望」という言葉だけが見えた。
やえの指がすぐに動いた。
通知を開くのではなく、スマホを伏せた。
膝の上で、黒い画面が下を向く。制服のスカートの紺色に、スマホの角だけが乗っている。
佐知は、その動きを見てしまった。
見なかったことにはできない。
でも、見たと言うこともできなかった。
「見えました?」
やえが聞いた。
佐知は少し遅れて首を振った。
「全部は」
「一部は見えたんですね」
「勝手に出たから」
「スマホのせい」
やえの声はいつも通り軽い。
「そう」
佐知はその軽さに合わせた。
やえは伏せたスマホを指先で一度だけ押さえた。通知を隠すにはもう十分なのに、まだ上から押している。
「スマホ、余計なときに明るくなりますよね」
「なる」
「阿久津さんのも?」
「なる」
大学のメール。母のLINE。休学延長の文字。
佐知は自分のポケットを見なかった。
やえはフェンスの向こうを見た。
「暑いですね」
今度はやえが言った。
「そうだね」
佐知は答えた。
給水塔の影が、少しだけ位置を変えていた。
やえの伏せたスマホは、膝の上で動かなかった。




