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第028話 ギシリギシ・四

佐知は、画面の中の椅子を見ていた。


外行きの三脚目。


夕方の光が、座面の裂け目にだけ残っている。床の黒い丸も、脚の曲がりも、背もたれの剥げた線も、画面の中では思ったよりおとなしく収まっていた。


シャッターを押せば済む。


済む、という言い方が嫌だった。


何が済むのか分からない。椅子の片付けはまだ終わっていないし、粗大ごみの予約も消えないし、喫茶ポニー跡が喫茶店に戻るわけでもない。


それでも、押せば何かに名前がつく。


佐知は指を離した。


画面の明るさが一段落ちる。カメラはまだ開いたままだったが、椅子の輪郭が少し沈んだ。


「撮らないんですか」


やえが言った。


前に聞いたときより、声が小さかった。急かすためではなく、ただ手元の状態を読んだだけの声だった。


「撮らない」


佐知は答えた。


言い切ったあとで、言い切る必要もなかったと思った。


やえは「ふうん」とだけ言った。ハルエは水の入ったプラスチックのコップを片付け、カウンターの奥で何かを探している。


店の入口で、戸が少し鳴った。


から、ではなく、かた、という音だった。引き戸の下に砂でも噛んだような、軽く引っかかる音。


佐知が振り返ると、男の人が半分だけ店に入っていた。年齢は二十代の後半くらいに見える。黒いTシャツの上に、色の落ちたシャツを羽織っている。片手にはコンビニの袋、もう片方の手には、細いケーブルの束が引っかかっていた。


「牛尾さん、鍵、まだこっちでいいんすか」


男はハルエのほうへ声をかけた。


「今日はいいよ。まだいるから」


ハルエが答える。


男の視線が、店の壁際へ移った。並べられた椅子を見て、少しだけ眉を上げる。


「それ、まだあったんすか」


誰に言ったのか分からない声だった。


ハルエはカウンターの下から布巾を取り出しながら、男を見た。


「あったよ」


「俺が高校のときからありましたよね」


「もっと前からある」


「まじすか」


男は椅子に近づかず、入口のところに立ったまま言った。


佐知はスマホを持った手を下ろした。カメラはまだ開いている。画面には床と自分の靴の先だけが映っていた。


やえが男を見て、ハルエを見た。


「知り合いですか」


やえが聞いた。


「二階の荷物置いてる子」


ハルエは短く言った。


「子って歳でもないっすよ」


男が言う。


「じゃあ、荷物置いてる人」


ハルエは言い直した。


「雑になるんすね」


男は笑って、ケーブルの束を少し持ち上げた。


「弓削です。二階、まだちょっと借りてます」


男は佐知とやえに向けて軽く頭を下げた。


「貝塚です」


やえが先に名乗った。


「阿久津です」


佐知も遅れて言った。


「あ、屋上の人たち」


弓削が言った。


「そういう認識なんですか」


やえが聞く。


「牛尾さんがそう言ってたんで」


「言ってないよ。屋上にいるって言っただけ」


ハルエが布巾を畳みながら返す。


「ほぼ同じじゃないすか」


弓削は悪びれなかった。


弓削の視線はもう一度、椅子へ行った。


「捨てるんすか」


「外に出すのは何脚かね」


ハルエが言った。


「もったいないっすね」


「持ってく?」


「置く場所ないです」


弓削は即答した。


「じゃあもったいないって言わない」


「言うだけは自由じゃないすか」


「自由だけど、軽い」


「軽いっすね」


弓削は自分で認めた。そこで用事を思い出したように、ケーブルの束を掲げる。


「二階、あとで開けます」


「勝手にどうぞ」


ハルエが言った。


「鍵」


「あとで」


「はい」


弓削はそれだけ言うと、店から出た。足音が階段のほうへ遠ざかっていく。古い階段が、男の体重に合わせて少し鳴った。


やえは入口のほうを見ていた。


「荷物置いてる人」


「情報が少ない」


佐知が言うと、やえはうなずいた。


「でも、椅子知ってましたね」


「古いからでしょ」


「古いだけで知ってるとは限らないです」


やえは壁際の椅子を見た。


「あの人が高校のときからある椅子」


「また名前つけてる」


佐知が言うと、やえは少し考えた。


「高校椅子」


「やめなよ」


「だめですか」


「雑」


「外行き椅子のほうがいいですか」


「比べるものじゃない」


ハルエが入口のほうを見て、ふっと息を吐いた。


「店閉めたときより、椅子捨てるほうが店じまいっぽいね」


声は、誰かに聞かせるためというより、自分の手元からこぼれたみたいだった。


佐知はハルエを見た。


ハルエはカウンターに布巾を置き、椅子のほうへ戻ってくる。顔はいつもと変わらない。さっきと同じ雑な大人の顔だ。


「閉めたときは、店じまいじゃないんですか」


佐知は聞いた。


「閉めたときは、閉めただけだったね」


ハルエが言った。


「鍵かけて、電気消して、明日もやらないって決めただけ」


「それ、店じまいでは」


やえが言う。


「そうなんだけど」


ハルエは椅子の背もたれに手を置いた。


「椅子があると、まだ店みたいでしょ」


佐知は答えられなかった。


壁際に寄せられた四脚は、店には見えない。使われない椅子の列に見える。それでも、椅子がなくなった床を想像すると、今よりずっと空っぽになる気がした。


ハルエは五脚目を見た。


「あと一脚、動かしたら今日は終わり」


「終わりって言いました」


やえが言う。


「言ったよ」


「店じまいっぽいですね」


「そう言ったでしょ」


ハルエは笑わなかった。


佐知はスマホを閉じた。カメラの画面が消える。黒い画面に、自分の顔が薄く映った。疲れている。椅子を運んだからだけではない顔だった。


やえはポケットから自分のスマホを出した。


「見ます?」


「何を」


佐知が聞くと、やえは外行き椅子の写真を開いた。


「外行き椅子」


画面がこちらへ向けられる。


写真は、やっぱり下手だった。


椅子の脚は一本切れている。床の黒い丸は半分だけ写っている。背景にハルエの足が入っているし、端にはやえの指もある。夕方の光は入っていない。座面の裂け目は見えるが、そこに焦点が合っているわけでもない。


でも、椅子だ。


外へ出される前の椅子だと分かる。


喫茶ポニー跡の壁際に寄せられた、少し斜めの椅子だと分かる。


佐知は写真を見たまま、短く息を吐いた。


「下手」


やえは口を尖らせた。


「はい」


「でも、椅子だって分かる」


佐知が続けると、やえの顔が少しだけ止まった。


「褒めました?」


「褒めてない」


「じゃあ何ですか」


「見たまま」


やえは画面を自分のほうへ戻した。写真を消す様子はない。拡大もしない。ただ一度見て、ポケットにしまった。


「椅子だって分かれば、椅子です」


やえが言った。


佐知は壁際の椅子を見た。


ハルエが五脚目を引きずる。


ぎしり。


音はさっきと同じだった。


同じなのに、少しだけ聞こえ方が違った。

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