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第027話 ギシリギシ・三

やえは、スマホを下ろさなかった。


外行き椅子の写真が画面に残っている。斜めの椅子。床の黒い丸。やえの指のほこり。全部まとめて、小さな四角の中に入っていた。


「捨てるなら、撮らなくてもよくない?」


佐知がもう一度言う前に、やえは画面から目を離した。


「捨てるから撮るんじゃないですか」


声は軽かった。


軽いのに、店の中で少しだけ止まった。


ハルエは奥の椅子に手をかけたまま、こちらを見た。何か言うかと思ったが、言わなかった。代わりに、背もたれを持ち直して、また床を引きずる。


ぎしり。


椅子の音が、返事みたいに鳴った。


佐知はやえを見た。


「何それ」


「そのままです」


やえはスマホを制服のポケットに入れた。今度はすぐ入った。


「捨てるなら、なくなるので」


「だから撮る?」


「はい」


「逆じゃないの」


「逆ですか」


やえは首を傾けた。


本当に分かっていない顔だった。わざと変なことを言っているときの顔ではない。給水塔を今日の給水塔と言ったときと同じ顔だ。


「残すなら撮る、なら分かる」


佐知は言った。


「捨てるなら、もういいでしょ」


「よくないです」


やえは即答した。


「何で」


「まだあるので」


佐知は返事に詰まった。


まだある。


外行き椅子は、確かにまだある。壁際で斜めになり、座面を少し破ったまま、そこにある。粗大ごみの予約をされ、外へ出される予定で、それでもまだ床に脚をつけている。


ハルエが四脚目を持ち上げた。


「あんたたち、口だけ動かさないで手も動かして」


ハルエの声で、佐知は椅子のほうへ戻された。


「はい」


佐知が答えると、やえも慌てて反対側へ回った。


「私は口も手も動かせます」


やえが言った。


「じゃあ足も動かして」


ハルエが返す。


「足は今からです」


「全部遅い」


ハルエは笑わずに言った。笑っていないのに、少しだけ笑っているように聞こえた。


四脚目は重かった。


座面が硬く、背もたれの板も厚い。脚の先に古いゴムがついていて、床から離れるときに、ぺた、と小さな音がした。


佐知は背もたれを両手で持った。


さっきの椅子より、店にしがみついている感じがする。


もちろん、椅子に意思はない。


ないのに、そう見える。


「阿久津さん、また顔」


やえが座面の向こうから言った。


「何の顔」


佐知が聞く。


「椅子に謝ってる顔」


「謝ってない」


「じゃあ何ですか」


「重い顔」


「重い顔、多いですね」


「椅子が重いから」


やえは少し考えた。


「この椅子は本当に言ってそうですね」


「何を」


「まだ座れますけど、って」


佐知は返事をしなかった。


それは、やえにしては少し正確すぎた。


まだ座れる。


まだ使える。


でも、使わない。


ハルエの言葉が、椅子の脚の間に残っているようだった。床に黒い丸が残るみたいに、言葉も小さく跡を残す。


四脚目を壁際に置くと、椅子は四つ並んだ。


一脚目。


二脚目。


外行きの三脚目。


重い四脚目。


やえなら、全部に名前をつけそうだった。


佐知はそう思ってから、自分で少し嫌になった。名前をつけているのは自分のほうだ。


ハルエは腰を伸ばし、店の入口のほうを見た。


「いったん休憩」


「休憩ありますか」


やえが目を上げる。


「労働だからね」


「報酬は」


「水」


「水」


やえの声が少し下がった。


ハルエはカウンターの内側へ戻り、コップを三つ出した。透明なグラスではなく、白いプラスチックのコップだった。店のものというより、どこかの倉庫から出てきたものに見える。


水道の音がした。


佐知は壁際の椅子を見ていた。


外行きの三脚目は、四脚の中で一番こちらに近い。斜めに置かれたまま、座面の裂け目を見せている。やえが撮ったせいで、もう写真の中の形と実物の形が重なってしまっていた。


写真を見たあとで実物を見ると、実物のほうが少し頼りなくなる。


やえはコップを受け取り、一口飲んだ。


「外行き椅子、あとで外に出るんですか」


やえがハルエに聞いた。


「夕方までにはね」


ハルエは自分のコップを持ったまま答えた。


「夕方って、もう夕方じゃないですか」


「だから急いでる」


「急いでる顔じゃないです」


「急いでるよ。中身が」


「見えないタイプの急ぎ」


「そう」


ハルエは水を飲んだ。


佐知もコップを持った。


水はぬるかった。


冷たくない水は、喉を通ってもあまり音がしない。飲んだことだけが、体の内側に薄く残る。


店の外が少し暗くなっていた。


ガラス戸の向こうで、商店街の影が長くなっている。向かいの建物の窓に、西日が当たり、その反射が喫茶ポニー跡の床へ細く入ってきた。


光は床の黒い丸を横切り、壁際の椅子の脚へ伸びた。


外行きの三脚目に、夕方の光が差した。


座面の裂け目が明るくなる。


黄色っぽいスポンジが、さっきよりはっきり見える。金属の脚の一本だけが光り、曲がった影が床に落ちた。背もたれの剥げたニスも、細い線になって浮いた。


佐知は、撮りたいと思った。


思ってしまった。


それは、きれいだったからではない。


終わりっぽかったからでもない。


光が当たって、椅子が急に椅子として見えたからだった。外行きでも、捨てるものでも、使えるけど使わないものでもなく、座面と脚と背もたれを持ったただの椅子として。


佐知はポケットに手を入れた。


スマホの角に指が触れる。


出す。


出さない。


迷う前に、やえがこちらを見た。


「撮ります?」


やえは聞いた。


急かす声ではなかった。


からかう声でもない。


ただ、見えているものを言っただけの声だった。


佐知はスマホを取り出した。


画面を開く。


カメラを起動する。


動作は、まだ覚えている。


椅子を画面に入れる。


外行きの三脚目。


夕方の光。


床の黒い丸。


やえの写真では切れていた脚の先も、今回は入る。背もたれの剥げたところも、座面の裂け目も、影も入る。


画面の中で、椅子はちょうどよく見えた。


ちょうどよく見えたことが、嫌だった。


シャッターボタンの白い丸が、指の下にある。


押せば、残る。


残れば、この椅子は捨てられる椅子になる。


捨てられる前の椅子になる。


喫茶ポニー跡に残っていた椅子になる。


そういう名前が、勝手につく。


佐知は指を止めた。


やえは何も言わなかった。


ハルエも何も言わなかった。


店の外で、自転車のブレーキが短く鳴った。


佐知は画面を見ていた。


椅子は、まだそこにある。


画面の中にもある。


でも、シャッターは押せなかった。

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