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第026話 ギシリギシ・二

二脚目の椅子は、一脚目より軽かった。


軽い、というより、中が少し抜けている感じがした。座面を持ち上げたとき、ビニールの下でスポンジがぺこ、と沈む。


「これ、座って大丈夫なんですか」


やえが聞いた。


「座る予定あるの」


ハルエが前を向いたまま返す。


「今はないです」


やえは座面のへこみを見ながら答えた。


「じゃあ大丈夫」


ハルエは振り向かなかった。


「そういう大丈夫なんですか」


「そういう大丈夫」


佐知は背もたれを持って、半歩ずつ進んだ。


床に残った黒い丸を踏まないようにしている自分に気づき、少し嫌になった。踏んでも何も変わらない。汚れは汚れだ。床の色がそこだけ違うだけだ。


でも、踏むと、椅子があった場所を自分の靴で消すみたいだった。


「阿久津さん、止まってます」


やえが言った。


「止まってない」


佐知は一歩だけ進んだ。


「椅子は止まってます」


「椅子の意見を代弁しないで」


「重いって言ってます」


「さっき軽いって言った」


「気が変わったそうです」


ハルエが笑った。


「椅子も忙しいね」


「忙しい椅子です」


やえは真面目な顔でうなずいた。


佐知は返す言葉を探して、やめた。手のひらに金属の冷たさが戻ってくる。少し汗ばんだ指に、ほこりがついた。


店の隅には、一脚目の椅子がもう置かれている。


壁に向かって斜めに立ち、座面の裂け目をこちらへ見せていた。さっきまでは店の中の一部だったのに、端に寄せられただけで、急に余りものに見える。


二脚目も、その隣に並べた。


ぎ。


脚が床に触れた音が、一脚目と似ている。


似ているのに、少し違う。


佐知は手を離し、並んだ二脚を見た。


「これ、全部そっちですか」


佐知が聞いた。


「とりあえずね」


ハルエは腰に手を当て、奥の壁際を見た。


まだ椅子がある。


四脚。


重なってはいない。ただ、壁に背中を預けるように並んでいる。古い店の椅子は、座る人がいないと妙にまじめに見えた。出番を待っているみたいで、待っていないことだけが分かる。


「使わないんですか」


佐知は言った。


言ってから、自分で意外だった。


「使いたい?」


ハルエがこちらを見る。


「いや」


佐知はすぐ否定した。


「じゃあ使わない」


「私の話じゃなくて」


佐知が言うと、ハルエは三脚目のほうへ手を伸ばした。


「私の話でもあるよ」


ハルエは三脚目の背もたれを持った。


「使えるのと、使うのは違うからね」


声は軽かった。


重い意味を置こうとしていない。


椅子を少し持ち上げながら、ただ事実として言っただけだった。皿を洗う。布巾を干す。椅子を動かす。その中に同じ重さで混ざる言葉。


佐知は返事をしなかった。


使える。


使う。


たった一文字違うだけなのに、椅子の見え方が少し変わった。


座面の裂け目。


曲がった脚。


背もたれの剥げたニス。


どれも、使えない理由には足りない。


でも、もう人がコーヒーを待つために座ることはない。


「じゃあ、使えるけど使わない椅子ですか」


やえが言った。


「そう」


ハルエが答える。


「ややこしい」


「生きてると大体ややこしいよ」


ハルエは三脚目の脚を少し浮かせた。


「急に大きい話にしないでください」


「してない」


ハルエは本当にしていない顔だった。


佐知は三脚目の反対側を持った。


この椅子は背もたれが少しぐらつく。持ち上げるたび、ネジのあたりが小さく鳴った。


かた。


ぎし。


かた。


その音が、店の中で妙に大きい。


誰も座っていない椅子の音なのに、人が動いている気配みたいに聞こえた。


「これ、どこに持ってくんですか」


やえが聞いた。


「あとで外に出す」


ハルエが答える。


「外」


佐知の声が少し低くなった。


「粗大ごみの予約、してあるから」


ハルエが言った。


「捨てるんですか」


やえが言った。


「全部じゃないよ。まだ残すのもある」


ハルエは三脚目の座面を軽く叩いた。


「この子は?」


「その子は外」


やえは座面を見た。


「外行きの子」


「子にしないで」


佐知が言う。


「屋上に生える子もいますし」


やえはまじめに言った。


「椅子は生えない」


「でも脚ありますよ」


「それは脚」


佐知は即座に返した。


「生える準備では」


「何の」


やえは答えなかった。


三脚目を壁際に寄せると、椅子たちは三つ並んだ。


一脚目。


二脚目。


外行きの三脚目。


並べただけなのに、順番がついたように見える。佐知はその順番が嫌だった。最初に動かされたもの、次に動かされたもの、捨てられるもの。


ただ置いてあるだけの椅子に、勝手に意味をつけているのは自分だ。


分かっている。


分かっているのに、やめられない。


やえは制服のポケットからスマホを取り出した。


「ちょっと」


佐知は反射で言った。


「何ですか」


やえがスマホを持ったまま振り返る。


「撮るの」


「はい」


「今?」


佐知は外行きの三脚目を見た。


「今です」


やえは画面を開き、外行きの三脚目に向けた。


構え方は雑だった。スマホは少し傾いているし、指が画面の端にかかっている。後ろには壁のシミも、床の黒い丸も、ハルエの足元も少し入っている。


佐知は口を開きかけた。


もっと右。


椅子が切れる。


影が邪魔。


外行きなら、その札か何かを入れたほうがいい。


そもそも、椅子が外へ出る前に撮るのか。


いくつも出てきた言葉を、佐知は飲み込んだ。


やえはシャッターを押した。


小さな音がした。


写真は、たぶん曲がっている。


やえは画面を確認して、うなずいた。


「外行き椅子」


やえが言った。


「タイトルつけた」


「必要なので」


「必要かな」


佐知は画面を覗き込んだ。


「あとで分からなくなると困ります」


「何が」


「どれが外行きだったか」


「全部椅子でしょ」


「全員椅子ですけど、全員同じじゃないです」


やえは画面を佐知に見せた。


外行き椅子。


本当にそう見えた。


写真の中の椅子は、店の隅に寄せられ、少し斜めになっている。座面の裂け目が見えて、脚の一本が影に沈んでいる。背景には床の黒い丸がぼんやり写っていた。


上手くはない。


でも、そこにある。


佐知は画面から目を離した。


「捨てるんでしょ」


佐知が言った。


「はい」


やえはうなずいた。


やえはスマホを下ろさない。


画面の端には、やえの指についたほこりまで写っていた。さっき椅子の裏を持った手だ。制服の袖にも白い筋がついている。本人は気にしていない。


佐知はもう一度、画面ではなく椅子を見た。


「捨てるなら、撮らなくてもよくない?」

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