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第025話 ギシリギシ・一

ブレた給水塔を見ていると、店の奥で椅子が鳴った。


ぎしり。


給水塔の脚が画面の中で二重になったまま、佐知の視線だけが音のほうへ動いた。


喫茶ポニー跡の奥、壁際に寄せられていた椅子が一脚、床をこすっている。ハルエが背もたれを持ち、少しずつ引きずっていた。


「重そうですね」


やえが言った。


「重いよ」


ハルエはあっさり答えた。


「じゃあやめます?」


「やめない」


ハルエは即答した。


「ですよね」


やえはスマホを閉じた。


給水塔の写真は消えた。消えたのではなく、画面の奥へしまわれた。そこにあるのは分かっている。


佐知はポケットの中の自分のスマホを少しだけ意識した。


画面を開く理由はない。


椅子が鳴っただけだ。


ただの古い椅子。


そう思おうとして、視線はもう椅子に向いていた。


座面は赤茶色のビニールで、端が少し裂けている。裂け目から黄色っぽいスポンジが見えていた。背もたれは木目調の板で、表面のニスがところどころ剥げている。脚は細い金属で、床に当たる部分だけ黒くなっていた。


四本脚のうち一本だけ、少し内側へ曲がっている。


人が座れば、たぶんまだ座れる。


たぶん、というところが嫌だった。


ハルエは椅子を壁から離すと、店の中央で一度止めた。


「ちょっと持って」


ハルエが言った。


「私ですか」


佐知が聞く前に、ハルエは佐知のほうを見た。


「二人とも」


「私もですか」


やえが言った。


「給水塔見てるだけなら手、空いてるでしょ」


ハルエはやえのポケットを見た。


「給水塔は大事です」


やえが言う。


「椅子も大事」


「大事なら引きずらないほうが」


「引きずらないと動かないの」


ハルエの声は平たかった。


命令しているというより、洗った皿を棚に戻すのと同じ調子だった。そこにあるから動かす。邪魔だから寄せる。重いから手を借りる。


佐知は立ち上がった。


やえも少し遅れて立った。スマホを制服のポケットへ入れようとして、うまく入らず、もう一度画面を見てから押し込む。


「消した?」


佐知が聞いた。


「何を」


やえが目だけを上げた。


「給水塔」


「消してないです」


「確認したんだ」


「念のため」


「何の」


「消えてない念です」


意味は分からなかった。


でも、やえの顔は真面目だった。


佐知はそれ以上言わず、椅子の背もたれを持った。


木は思ったより冷たい。表面はつるつるしているのに、端だけざらついている。指を滑らせると、小さなささくれに引っかかった。


「刺さるよ」


ハルエが言った。


「先に言ってください」


佐知が言う。


「今言った」


「遅い」


「刺さってないでしょ」


「まだ」


佐知は背もたれから少し指を離し、金属の脚のほうを持った。今度は冷たさが手のひらに入ってくる。古い鉄の匂いがした。屋上の手すりと似ている。けれど、これは空の匂いではない。床に近い匂いだ。


やえは座面の下に手を入れた。


「うわ、ほこり」


やえが顔をしかめた。


「そりゃあるよ」


ハルエは振り返らずに答えた。


「椅子の裏って、見ないほうがいいですね」


「見たんだ」


佐知が言うと、やえは座面の下から手を抜かないまま返した。


「持つには見ます」


「じゃあ持って」


ハルエが先に歩き出した。


三人で一脚の椅子を持つのは、かえってやりづらい。誰かが少し動くと、別の誰かの手に重さが寄る。佐知が合わせようとすると、やえが半歩遅れる。やえが慌てて進むと、ハルエが止まる。


椅子はそのたびに小さく鳴った。


ぎし。


ぎしり。


喫茶ポニー跡の床は、ところどころ色が違う。


テーブルが置かれていた四角い跡。


日焼けしなかった部分。


何かをこぼして磨いたらしい、少しだけ光る場所。


椅子の脚が長い間そこにあった場所には、黒い丸が四つ残っていた。今、椅子が動くと、その丸だけが床に置いていかれる。


佐知はそれを見て、撮りたいと思った。


四つの黒い丸。


椅子があった場所。


もう椅子はないのに、椅子の形だけが床に残っている。


撮れば、きっと分かりやすい。


分かりやすい、と思った瞬間に嫌になった。


これは終わりの印です。


ここに椅子がありました。


そういう文字が、写真の下に勝手につく気がした。


佐知はスマホを出さなかった。


「阿久津さん、そっち重いですか」


やえが聞いた。


「普通」


佐知は短く返した。


「普通の顔じゃないです」


「椅子持ってる顔」


「椅子持ってる顔、だいぶ嫌そうです」


「好きな人いるの」


佐知は背もたれを持ち直した。


「椅子持つのがですか」


「そう」


「引っ越し屋さんとか」


「仕事でしょ」


「じゃあ椅子屋さん」


「何その職業」


「椅子を好きな人」


佐知は少し息を吐いた。


くだらない話をしているほうが、重さをごまかせる。椅子の脚の冷たさも、床に残った黒い丸も、少しだけ遠くなる。


ハルエは店の隅を足で示した。


「そこ。壁に寄せて」


「置いていいんですか」


佐知が聞いた。


「置いて」


「せーの、いります?」


やえが聞いた。


「いらない」


ハルエはもう椅子を下ろす姿勢になっていた。


「いるでしょ」


佐知が言う。


「じゃあ言って」


ハルエはもう手を離しそうだった。


「せーの」


やえの声が少し高くなる。


三人で椅子を下ろした。


脚が床に触れた瞬間、ぎ、と短く鳴った。


思ったより大きい音だった。


佐知は手を離して、椅子を見た。


壁際へ移された一脚は、店の真ん中にあったときより小さく見えた。座面の裂け目も、脚の曲がりも、壁の影に少し沈む。


さっきまで椅子があった床には、四つの黒い丸だけが残っている。


「まだあるから」


ハルエが言った。


佐知は顔を上げた。


「まだ?」


佐知が聞き返す。


「椅子は一脚じゃ店にならないでしょ」


「店、もうやってないですよね」


言ってから、佐知は少しだけ口を閉じた。


余計だった。


ハルエは怒らなかった。


「だから動かしてるんじゃない」


それだけ言って、奥の壁際へ戻った。


やえが佐知を見た。


「阿久津さん、今ちょっと刺しましたね」


「刺してない」


佐知は床の黒い丸を見たまま返した。


「椅子のささくれよりは刺してました」


「比較対象が細い」


「でも刺さると痛いです」


佐知は答えなかった。


ハルエが次の椅子を引いた。


ぎしり。


同じ音なのに、さっきより少し低く聞こえた。


佐知はポケットの中のスマホに触れた。


出さない。


今出したら、何かを決めたみたいになる。


この椅子を、終わるものとして見ている。


喫茶ポニー跡を、片付ける場所として見ている。


そう認めるみたいになる。


「阿久津さん」


ハルエが呼んだ。


「はい」


「次、そっち持って」


佐知はスマホから手を離した。


やえはもう椅子の反対側に回っている。


「二脚目ですね」


やえが言った。


「実況しないで」


「記録です」


「スマホでやれば」


「今は手がふさがってるので」


やえは両手を座面の下に入れた。


佐知も背もたれを持つ。


さっきより少しだけ慣れた。


慣れたことが、また少し嫌だった。


椅子はゆっくり床から離れた。


黒い丸が、また四つ残った。

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