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第024話 マエノホウ・四

やえは何も言わなかった。


聞かない、というより、聞く場所を探していない感じだった。紙パックの写真を閉じ、スマホの角でカウンターを小さく叩いている。


こつ。


こつ。


音は軽い。


軽いのに、佐知の中で赤い輪ゴムの写真はまだ残っていた。


「聞かないの」


佐知は言った。


言ってから、自分で少し驚いた。


聞かれたいわけではない。


でも、聞かれないと、今度は自分が続きを持ったままになる。


やえはスマホの角を止めた。


「聞いたら、阿久津さんが長くなる気がしたので」


「失礼」


「短くなります?」


「ならない」


「じゃあ、合ってます」


ハルエが棚の前で少し笑った。皿を拭く布の音が、しゃり、とした。


佐知は反論しなかった。


長くなる。


たぶん、なる。


でも、本当に長かったのは、あの一言の前までだった。


赤い輪ゴムの写真のあと、佐知はしばらく似た場所ばかり撮った。


濡れたベンチ。


誰もいない廊下。


階段の隅の砂。


靴箱の下に落ちた、片方だけのヘアピン。


阿久津さんらしい場所。


嫌いではなかった。


むしろ、少し助かった。迷った日でも、教室の隅や靴箱の下なら、撮るものが見つかった。


それを撮れば、たぶん、阿久津さんらしい。


そう思うと、シャッターは押せた。


押せることが、また困った。


ある日の放課後、佐知は珍しく人のいる写真を撮った。


写真部の部室から見える中庭で、吹奏楽部の一年生たちが楽器ケースを並べていた。練習前なのか後なのか、三人でしゃがみ込み、ケースの留め具を外したり閉めたりしている。


顔はほとんど写っていない。


手と膝と、黒いケース。


その横に、細い銀色の金具が並んでいる。


誰かが笑った瞬間、ケースの上に置かれた白いクロスが風で少しめくれた。


佐知は、そこだけを撮った。


撮ってから、すぐ画面を見た。


悪くない。


たぶん。


人が写っているのに、顔は強くない。音は写っていないのに、音がある感じがした。いつもの廊下や輪ゴムとは違う。でも、完全に違うわけでもない。


部室に戻って、その写真を小森谷先生に見せた。


先生は出席簿に判を押していた。朱肉のふたを閉め、カメラを受け取る。


「お、今日は人がいる」


「顔は写ってないです」


「うん。手がいいね」


先生は画面を少し傾けた。


古いデジカメの液晶は見づらく、角度を変えるたびに色が薄くなったり濃くなったりする。先生はしばらく黙っていた。


佐知は机の端を見た。


そこには、前に印刷した赤い輪ゴムの写真が置かれていた。まだ片付けられていない。白いふちが少し反っている。


「これもいいね」


先生が言った。


佐知は顔を上げた。


「本当ですか」


「うん」


先生はもう一度、画面を見た。


それから、赤い輪ゴムの写真にも目をやった。


「でも、前のほうが、阿久津さんらしかったね」


声は普通だった。


責める感じも、がっかりした感じもなかった。


本当に、ただそう思っただけの声だった。


だから余計に、どこにも置けなかった。


「前」


佐知は聞き返した。


「この輪ゴムとか、傘立てとか。ああいう感じ」


先生は机の上の写真を指で軽く叩いた。


「阿久津さんは、誰かが通り過ぎたあとを撮るのが上手いから」


褒めている。


分かった。


分かったから、何も言えなかった。


「そうですか」


佐知はそれだけ言った。


「うん。まあ、これも悪くないけどね」


悪くない。


その言葉は、壁に貼られない紙みたいだった。持っていても、どこに置けばいいか分からない。


佐知はカメラを受け取り、画面を見た。


中庭。


手。


黒いケース。


風でめくれた白いクロス。


悪くない。


でも、阿久津さんらしくはない。


そう書かれている気がした。


その日、佐知はその写真を削除しなかった。


削除はしなかった。


でも、次にカメラを持って校舎を歩いたとき、人のいる場所では立ち止まらなかった。


中庭から笑い声がしても、見ないふりをした。


教室で誰かが机に伏せて寝ていても、通り過ぎた。


廊下の窓から夕方の光が差し込んで、床に人の影が伸びていても、佐知は少し待った。影の持ち主がいなくなってから、床だけを撮った。


そのほうが、安心だった。


前のほう。


前のほう。


前のほう。


言葉は、場所みたいだった。


そこへ戻れば間違えない。


でも、戻るためにカメラを構えるたび、シャッターの前に誰かの声が立った。


阿久津さんらしい。


前のほうが。


阿久津さんらしかった。


佐知は少しずつ、撮る前に疲れるようになった。


画面を開く。


構える。


考える。


下ろす。


削除する写真はない。


撮っていないから。


「阿久津さん」


やえの声で、喫茶ポニー跡のカウンターが戻ってきた。


佐知は白いカップを見ていた。


いつから見ていたのか分からない。カップの内側の輪は、さっきより濃く見えた。実際には同じはずなのに、目がそこだけを選んでいる。


「長かったです」


やえが言った。


「聞いてないくせに」


「聞いてないのに長かったです」


「失礼」


「二回目ですね」


佐知は息を吐いた。


ハルエは何も言わなかった。カウンターの内側で、布巾を広げて干している。布巾の端から水が一滴落ち、シンクに小さく当たった。


やえはスマホを操作した。


「これ、見ます?」


画面をこちらへ向ける。


給水塔だった。


丸藤第六ビルの屋上の、あの給水塔。


でも、ひどくブレている。夕方の光が斜めに流れ、給水塔の脚が二重にずれていた。フェンスの線も曲がり、空は白く飛んでいる。


佐知は思わず眉を寄せた。


「ブレすぎ」


「風が強かったので」


「風のせいにしない」


「手も強かったです」


「手が強いって何」


やえは少し笑った。


その写真は、直したいところだらけだった。


もう少し構える。


フェンスを避ける。


露出を下げる。


給水塔の脚をちゃんと入れる。


そういうことが、頭の中で勝手に並ぶ。


でも、佐知は言わなかった。


「消さないの」


代わりに、それだけ聞いた。


やえは画面を見た。


「消す理由がないので」


「ブレてる」


「今日の給水塔なので」


その言い方は、前にも聞いた気がした。


昨日のアイスは昨日のアイス。


今日の給水塔は今日の給水塔。


雑だ。


雑なのに、少しだけ強い。


やえは写真を閉じなかった。


削除もしなかった。


ブレた給水塔は、画面の中で少し傾いたまま残っている。


佐知はそれを見ていた。


前のほうでも、阿久津さんらしいほうでもない。


ただ、今日の給水塔。


それだけで残っている写真が、目の前にあった。

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