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第023話 マエノホウ・三

「傘立てって、撮るものなんですか」


やえが言った。


喫茶ポニー跡のカウンターには、まだぺしゃんこの紙パックが画面の中にいる。ハルエは洗い終えた皿をタオルで拭きながら、聞いているのかいないのか分からない顔をしていた。


佐知は白いカップを見たまま答えた。


「撮るものかどうかは、知らない」


「じゃあ何で」


「あったから」


「それ、私の紙パックと同じじゃないですか」


「同じにしないで」


「傘立てのほうが偉いんですか」


「偉くはない」


「じゃあ何ですか」


佐知は少し考えた。


傘立て。


雨のあと。


青い傘。


床の水たまり。


文化センターの投稿に並んだ、自分の名前。


それらはもう一つの塊になっていて、どれか一つだけを取り出そうとすると、指の間で形が崩れた。


「最初に褒められた写真」


口に出すと、思ったより小さかった。


やえは紙パックの画面から顔を上げた。


「褒められたんですか」


「少し」


「誰に」


「知らない人とか」


「知らない人、急に出てきますね」


「投稿に反応があった」


「おお」


やえが変な声を出した。


佐知はその声が嫌ではなかった。大げさに羨ましがるでも、すごいですねと丁寧に言うでもない。ただ、目の前に丸いものを見つけたみたいな声だった。


「有名写真家じゃないし」


「言ってないです」


「賞も佳作だし」


「佳作って何番目ですか」


「知らない」


「知らないのに、ちょっと低く言うんですね」


佐知は返せなかった。


ハルエが皿を一枚、棚に戻した。古い木の棚が、ぎ、と鳴る。


その音で、また高校の部室の椅子が鳴った。


傘立ての写真が載ってから、部室に来る人が少し増えた。増えたと言っても、二人が三人になるくらいだ。


文化祭の準備で顔を出していた先輩が、スマホを見せながら言った。


「阿久津さん、コメント来てたじゃん」


「見ました」


「渋いって」


「はい」


「渋い高校生」


「やめてください」


先輩は笑って、またポスターの文字を塗った。悪意はない。むしろ楽しそうだった。


小森谷先生も、職員室から来るたびに傘立ての話を一度だけした。


「展示、週末からだって」


「見に行くんですか」


「一応、顧問なので」


「一応」


「阿久津さんも行けたら行ってみるといいよ」


「自分の写真を見るためにですか」


「それもあるし、他の人の写真を見るために」


佐知は返事をしなかった。


文化センターの壁に、自分の撮った傘立てが貼られている。そう考えると、嬉しいより先に、どこに立てばいいか分からなかった。写真の前に立つのか、少し離れて見るのか。名前のところを見るのか、見ないふりをするのか。


週末、佐知は結局行かなかった。


行かなかったくせに、投稿は見た。展示風景の端に、自分の傘立てが小さく写っていた。白い壁と銀色の額と、知らない子どもの黄色い帽子。


いいねも少し増えていた。


佐知はスマホを伏せた。


三分もしないうちに、また表にした。


次にカメラを持って校舎を歩いたとき、佐知は前より遅くなった。


撮るものが見つからなかったわけではない。


むしろ、前よりいろいろ目についた。


雨の次の日の昇降口。


体育館裏の排水溝。


図書室前の返却ボックス。


前なら、見つけた順に撮っていた。少し曲がっても、暗くても、消さなければ残った。


でも、その日は一枚目を撮るまでに時間がかかった。


これは傘立てよりいいか。


前より地味すぎないか。


誰かが見たら、また渋いと言うのか。


阿久津さんらしい、と言われるのか。


その言葉は、最初から嫌だったわけではない。


部室で先輩が言った。


「こういうの見つけるの、阿久津さんらしいよね」


小森谷先生も、プリントした写真を見ながら言った。


「人が通り過ぎるところを撮るの、阿久津さんらしいね」


どちらも褒めていた。


たぶん。


佐知も、最初はうなずいた。


自分らしいと言われるのは、自分の持ち物に名前を書いてもらうみたいだった。誰のものでもない、という不安が少し減る。


けれど、同じ言葉が何度も来ると、その言葉の中に少しずつ入れられていく気がした。


その中には、傘立てが入る。


濡れたベンチも入る。


排水溝も、返却ボックスも、誰もいない廊下も、たぶん入る。


でも、昼休みの教室で笑っている先輩は入らない。


風で揺れたカーテンの向こうの夕焼けも、入るかどうか分からない。


佐知はカメラを構えたまま、シャッターを押さなかった。


押せないほど嫌だったわけではない。


ただ、押したあとに、そこからはみ出す気がした。


部室に戻ると、撮った写真は三枚だけだった。


排水溝。


返却ボックス。


廊下の床に落ちた赤い輪ゴム。


小森谷先生は、その三枚を順番に見た。


「これ、いいね」


先生は赤い輪ゴムの写真を指した。


「輪ゴムですけど」


「輪ゴムだね」


「先生、そればっかりですね」


「阿久津さんも、そればっかり撮るから」


先生は笑っていた。


佐知も少し笑った。


でも、そのあと先生がもう一度言った。


「こういうの、阿久津さんらしい」


その日は、嬉しさが先に来なかった。


胸の前にかけたカメラが、急に軽すぎる気がした。落としたら大変なものではなく、いつでも棚に戻せるものみたいだった。


佐知は写真を見た。


赤い輪ゴム。


床の傷。


光のない廊下。


確かに、自分が撮った。


嫌ではない。


でも、撮る前にもう言われていた気がした。


こういうのが、阿久津さんらしい。


だから、こういうのを撮る。


そう思う前に、指が止まる日が増えた。


その変化は大きくなかった。


誰かに言えば、考えすぎ、と返されるくらいのものだったと思う。実際、佐知もそう思おうとした。


入賞した。


褒められた。


名前を覚えてもらった。


何が嫌なのか。


嫌ではない。


そこが一番、面倒だった。


現在の喫茶ポニー跡で、やえが紙パックの写真を閉じた。


「褒められたのが、嫌だったんですか」


佐知は顔を上げた。


「嫌だったら楽だった」


「じゃあ、何が」


佐知は答える前に、白いカップを見た。


阿久津さんらしい。


その言葉は、カップの内側に残った輪みたいに、薄いのに消えなかった。


「阿久津さんらしいって、言われるようになった」


やえは少しだけ首を傾けた。


「それが嫌なんですか」


佐知はすぐには答えなかった。


嫌。


その一文字に入るほど、簡単ではない。


「嫌じゃない」


佐知は言った。


やえは待っていた。


白いカップの内側に残った輪が、店の灯りをぼんやり返している。洗っても落ちない、というほど濃くはない。けれど、なくなったと言うには残っている。


「嫌じゃないから、困る」


やえは何も言わなかった。


ハルエが棚の戸を閉める音だけがした。


かたん。


その小さな音のあと、佐知の中で赤い輪ゴムの写真が、まだ削除されずに残っていた。

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