第022話 マエノホウ・二
白い輪は、カップの中から窓のほうへ移った。
佐知は一瞬、喫茶ポニー跡のカウンターにいるのか、高校の空き教室にいるのか分からなくなった。
「阿久津さん?」
やえの声がした。
近い。
でも、返事をする前に、佐知の目の奥で、別の午後が勝手に開いた。
理科準備室の隣にある小さな教室だった。
教室、と呼ぶには机が少ない。二人掛けの机が三つ、壁際に寄せられている。棚には卒業した先輩のパネルが積まれ、角の少し折れた写真用紙が輪ゴムでまとめられていた。
窓は西向きで、放課後になると白っぽい光が床に伸びる。
埃が、その光の中だけで目立った。
写真部の部室は、そこだった。
写真部、と言っても、熱い感じはなかった。大会に向けて燃える人もいない。毎日集まる人もいない。部員名簿には数人の名前があって、そのうち何人かは文化祭のときだけ来る。
小森谷先生は、それを怒らなかった。
「まあ、撮れるときに撮ればいいよ」
先生はいつもそう言った。
職員室から持ってきた鍵を机に置き、古いデジカメを棚から出す。黒いストラップは少し毛羽立っていて、電池のふたは閉まりが悪い。強く押すと、かち、と小さく鳴った。
「阿久津さん、今日使う?」
「使っていいんですか」
「使うためのものだからね」
そう言われても、最初は困った。
使うためのもの。
それはそうだ。
でも、誰かのものを借りるときの軽さは、少し苦手だった。壊したらどうしよう、返すとき何か言われるだろうか、レンズに指紋をつけたらばれるだろうか。そういうことばかり先に考える。
小森谷先生は、佐知の手元を見て笑った。
「落とさなければ大丈夫」
「落としたら」
「落とさなかったことにする」
「だめじゃないですか」
「じゃあ落とさないで」
先生は穏やかな声で言って、出席簿をめくり始めた。
佐知はストラップを首にかけた。
軽い。
軽いのに、胸の前に黒い機械があるだけで、少しだけ姿勢が変わる。背筋が伸びるというほどではない。むしろ、余計なところを見ないで済む。何を見ているのかを、カメラのせいにできる。
佐知は校舎の中を歩いた。
人のいる場所は撮らなかった。
友達の笑顔とか、部活中の横顔とか、夕焼けのグラウンドとか、そういうものは他の人が撮ればいいと思った。撮っているところを見られるのも面倒だった。
佐知が撮ったのは、昇降口の端にたまった砂だった。
雨の日の傘立て。
誰も座っていないベンチの、濡れた座面。
階段の踊り場に置かれた、片方だけ空気の抜けたバスケットボール。
購買のシャッターの下に落ちていた、四角く折られたレシート。
部室に戻ってカメラの画面を見ると、どれも地味だった。
地味で、少し曲がっていて、暗い。
でも、消すほどではなかった。
消すほどではない、という理由だけで、佐知は削除ボタンを押さなかった。古いデジカメは、撮れば勝手に残る。スマホみたいにすぐ消せるのに、消す指がまだ遅かった。
「人、撮らないね」
小森谷先生が、机の向こうから言った。
佐知はカメラを胸の前に下げた。
「写ったら困るかなと思って」
「許可とかね」
「あと、顔があると、顔を見ちゃうので」
「顔は強いからね」
先生は否定しなかった。
それが少し楽だった。
撮るなら人を撮りなさい、と言われたら、たぶん佐知はその日でカメラを返していた。青春っぽいものを撮りなさい、と言われても同じだった。
でも先生は、写真を一枚ずつ見て、たまに首を傾けるだけだった。
「この傘立て、いいね」
「傘立てですけど」
「うん。傘立てだね」
「いいんですか」
「傘立てが嫌なら撮らないでしょ」
その言い方は、雑だった。
雑なのに、佐知はしばらく黙った。
嫌なら撮らない。
あまりにも当たり前のことを言われただけなのに、胸の前のカメラが少し軽くなった。
市の文化センターの写真展の紙が部室に来たのは、その少しあとだった。
薄い水色の募集要項。
高校生の部。
一人二点まで。
応募用紙に学校名と名前を書く欄があり、作品名を書く欄もあった。
小森谷先生は、それを黒板に磁石で留めた。
「出したい人はどうぞ」
誰もすぐには手を挙げなかった。
部室にいたのは佐知と、文化祭用のポスターを描いていた先輩だけだった。先輩はイヤホンを片方だけ外して、募集要項を見た。
「賞金出ます?」
「図書カードだったかな」
「じゃあ考えます」
先輩はそれだけ言って、またポスターに戻った。
佐知は水色の紙を見た。
写真展。
その言葉だけが少し大きい。壁に飾られる感じがする。額に入る感じがする。知らない人が腕を組んで見る感じがする。
佐知の傘立てには、そういう場所が似合わなかった。
「阿久津さんも、出してみる?」
先生に言われて、佐知はすぐ首を振った。
「いや、無理です」
「無理というほどの作業はないよ。印刷して、貼って、名前書くだけ」
「そういう無理じゃなくて」
「どれなら無理じゃない?」
佐知は答えられなかった。
先生は笑わなかった。急かしもしなかった。
「じゃあ、傘立てを候補にしておく?」
「何で傘立て」
「嫌じゃないんでしょ」
またそれだ。
佐知はカメラの小さな画面を見た。
傘立ての写真。
銀色の棒が何本も斜めに重なり、青い傘の先から水が落ちている。床には薄い水たまりができていて、窓の光を弱く返している。奥には誰もいない廊下が写っていた。
派手ではない。
学校紹介に使える感じでもない。
でも、嫌ではなかった。
「作品名、何にするの」
先輩がイヤホンを揺らしながら言った。
佐知は募集要項の空欄を見た。
「傘立て」
「そのままじゃん」
「じゃあ、雨のあと」
「それっぽい」
「それっぽいの嫌です」
「じゃあ傘立てでいいじゃん」
先輩は雑に言って、ポスターの文字を塗り続けた。
結局、応募用紙には「傘立て」と書いた。
小森谷先生は何も直さなかった。
結果が来た日のことは、紙の硬さで覚えている。
放課後、部室の机に白い封筒が置かれていた。文化センターの角印が押してある。先生が開け、折りたたまれた紙を広げた。
「阿久津さん、佳作だって」
「何がですか」
「傘立て」
佐知は、まず傘立てが褒められたみたいだと思った。
それから、自分の名前が紙にあるのを見た。
高校名。
二年。
阿久津佐知。
作品名、傘立て。
佳作。
文字は全部、同じ太さで印刷されていた。佐知の名前だけが特別に大きいわけではない。それがかえって変だった。
「え、これ、本当に私ですか」
「阿久津佐知さんが同じ学校に二人いなければ」
「いないと思います」
「じゃあ、おめでとう」
小森谷先生は普通に言った。
普通すぎて、佐知はどういう顔をすればいいか分からなかった。
うれしい、と言うには、まだ紙の上の出来事だった。
別に、と言うには、封筒から目が離れなかった。
「学校のアカウントに載せてもいいかな。文化センターのほうにも名前は出ると思う」
先生が言った。
佐知は口を開けて、閉じた。
「写真も、ですか」
「受賞作品だからね。嫌なら名前だけにできるか聞くよ」
嫌。
その言葉は出なかった。
傘立ては、嫌ではない。
でも、誰に見せたいかと聞かれると、よく分からない。
「大丈夫です」
佐知は言った。
言ってから、少し早かったと思った。
数日後、学校のアカウントに写真が載った。
スマホの画面に、自分の撮った傘立てが出ている。
小さな画像になると、床の水たまりはほとんど分からなかった。青い傘だけが少し目立つ。作品名と名前が、その下に並んでいる。
文化センターの投稿にも、同じ写真があった。
いいねの数は、驚くほど多くはない。
でも、ゼロではなかった。
「高校生でこれ撮るの渋い」
「雨の日の感じ好き」
「タイトルそのままなのいい」
知らない人の短い言葉が、画面の下に増えていく。
佐知はベッドの上で膝を抱え、何度も同じ投稿を開いた。
閉じて、また開く。
通知を切ろうとして、切らない。
スクリーンショットを撮ろうとして、やめる。
自分の写真なのに、自分の手元から少し離れた場所で、勝手に薄く光っている。
悪い気はしなかった。
それが、少し怖かった。
「阿久津さん?」
やえの声が、また近くなった。
佐知は喫茶ポニー跡のカウンターを見た。
白いカップ。
ぺしゃんこの紙パック。
やえのスマホ。
全部、今の場所に戻っている。
でも、画面の中にあった傘立てだけは、まだ戻ってこなかった。
「何か思い出してました?」
やえが聞いた。
佐知は白いカップの内側を見たまま、答えた。
「傘立て」
「傘立て?」
「うん」
「写真部、急に生活感ありますね」
「写真部なんて、大体生活感でできてる」
言ってから、佐知は少しだけ息を吐いた。
画面の向こうで増えた知らない人の言葉は、もう読めない。
それでも、雨の日の傘立ては、まだ消せない場所に残っていた。




