表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/96

第022話 マエノホウ・二

白い輪は、カップの中から窓のほうへ移った。


佐知は一瞬、喫茶ポニー跡のカウンターにいるのか、高校の空き教室にいるのか分からなくなった。


「阿久津さん?」


やえの声がした。


近い。


でも、返事をする前に、佐知の目の奥で、別の午後が勝手に開いた。


理科準備室の隣にある小さな教室だった。


教室、と呼ぶには机が少ない。二人掛けの机が三つ、壁際に寄せられている。棚には卒業した先輩のパネルが積まれ、角の少し折れた写真用紙が輪ゴムでまとめられていた。


窓は西向きで、放課後になると白っぽい光が床に伸びる。


埃が、その光の中だけで目立った。


写真部の部室は、そこだった。


写真部、と言っても、熱い感じはなかった。大会に向けて燃える人もいない。毎日集まる人もいない。部員名簿には数人の名前があって、そのうち何人かは文化祭のときだけ来る。


小森谷先生は、それを怒らなかった。


「まあ、撮れるときに撮ればいいよ」


先生はいつもそう言った。


職員室から持ってきた鍵を机に置き、古いデジカメを棚から出す。黒いストラップは少し毛羽立っていて、電池のふたは閉まりが悪い。強く押すと、かち、と小さく鳴った。


「阿久津さん、今日使う?」


「使っていいんですか」


「使うためのものだからね」


そう言われても、最初は困った。


使うためのもの。


それはそうだ。


でも、誰かのものを借りるときの軽さは、少し苦手だった。壊したらどうしよう、返すとき何か言われるだろうか、レンズに指紋をつけたらばれるだろうか。そういうことばかり先に考える。


小森谷先生は、佐知の手元を見て笑った。


「落とさなければ大丈夫」


「落としたら」


「落とさなかったことにする」


「だめじゃないですか」


「じゃあ落とさないで」


先生は穏やかな声で言って、出席簿をめくり始めた。


佐知はストラップを首にかけた。


軽い。


軽いのに、胸の前に黒い機械があるだけで、少しだけ姿勢が変わる。背筋が伸びるというほどではない。むしろ、余計なところを見ないで済む。何を見ているのかを、カメラのせいにできる。


佐知は校舎の中を歩いた。


人のいる場所は撮らなかった。


友達の笑顔とか、部活中の横顔とか、夕焼けのグラウンドとか、そういうものは他の人が撮ればいいと思った。撮っているところを見られるのも面倒だった。


佐知が撮ったのは、昇降口の端にたまった砂だった。


雨の日の傘立て。


誰も座っていないベンチの、濡れた座面。


階段の踊り場に置かれた、片方だけ空気の抜けたバスケットボール。


購買のシャッターの下に落ちていた、四角く折られたレシート。


部室に戻ってカメラの画面を見ると、どれも地味だった。


地味で、少し曲がっていて、暗い。


でも、消すほどではなかった。


消すほどではない、という理由だけで、佐知は削除ボタンを押さなかった。古いデジカメは、撮れば勝手に残る。スマホみたいにすぐ消せるのに、消す指がまだ遅かった。


「人、撮らないね」


小森谷先生が、机の向こうから言った。


佐知はカメラを胸の前に下げた。


「写ったら困るかなと思って」


「許可とかね」


「あと、顔があると、顔を見ちゃうので」


「顔は強いからね」


先生は否定しなかった。


それが少し楽だった。


撮るなら人を撮りなさい、と言われたら、たぶん佐知はその日でカメラを返していた。青春っぽいものを撮りなさい、と言われても同じだった。


でも先生は、写真を一枚ずつ見て、たまに首を傾けるだけだった。


「この傘立て、いいね」


「傘立てですけど」


「うん。傘立てだね」


「いいんですか」


「傘立てが嫌なら撮らないでしょ」


その言い方は、雑だった。


雑なのに、佐知はしばらく黙った。


嫌なら撮らない。


あまりにも当たり前のことを言われただけなのに、胸の前のカメラが少し軽くなった。


市の文化センターの写真展の紙が部室に来たのは、その少しあとだった。


薄い水色の募集要項。


高校生の部。


一人二点まで。


応募用紙に学校名と名前を書く欄があり、作品名を書く欄もあった。


小森谷先生は、それを黒板に磁石で留めた。


「出したい人はどうぞ」


誰もすぐには手を挙げなかった。


部室にいたのは佐知と、文化祭用のポスターを描いていた先輩だけだった。先輩はイヤホンを片方だけ外して、募集要項を見た。


「賞金出ます?」


「図書カードだったかな」


「じゃあ考えます」


先輩はそれだけ言って、またポスターに戻った。


佐知は水色の紙を見た。


写真展。


その言葉だけが少し大きい。壁に飾られる感じがする。額に入る感じがする。知らない人が腕を組んで見る感じがする。


佐知の傘立てには、そういう場所が似合わなかった。


「阿久津さんも、出してみる?」


先生に言われて、佐知はすぐ首を振った。


「いや、無理です」


「無理というほどの作業はないよ。印刷して、貼って、名前書くだけ」


「そういう無理じゃなくて」


「どれなら無理じゃない?」


佐知は答えられなかった。


先生は笑わなかった。急かしもしなかった。


「じゃあ、傘立てを候補にしておく?」


「何で傘立て」


「嫌じゃないんでしょ」


またそれだ。


佐知はカメラの小さな画面を見た。


傘立ての写真。


銀色の棒が何本も斜めに重なり、青い傘の先から水が落ちている。床には薄い水たまりができていて、窓の光を弱く返している。奥には誰もいない廊下が写っていた。


派手ではない。


学校紹介に使える感じでもない。


でも、嫌ではなかった。


「作品名、何にするの」


先輩がイヤホンを揺らしながら言った。


佐知は募集要項の空欄を見た。


「傘立て」


「そのままじゃん」


「じゃあ、雨のあと」


「それっぽい」


「それっぽいの嫌です」


「じゃあ傘立てでいいじゃん」


先輩は雑に言って、ポスターの文字を塗り続けた。


結局、応募用紙には「傘立て」と書いた。


小森谷先生は何も直さなかった。


結果が来た日のことは、紙の硬さで覚えている。


放課後、部室の机に白い封筒が置かれていた。文化センターの角印が押してある。先生が開け、折りたたまれた紙を広げた。


「阿久津さん、佳作だって」


「何がですか」


「傘立て」


佐知は、まず傘立てが褒められたみたいだと思った。


それから、自分の名前が紙にあるのを見た。


高校名。


二年。


阿久津佐知。


作品名、傘立て。


佳作。


文字は全部、同じ太さで印刷されていた。佐知の名前だけが特別に大きいわけではない。それがかえって変だった。


「え、これ、本当に私ですか」


「阿久津佐知さんが同じ学校に二人いなければ」


「いないと思います」


「じゃあ、おめでとう」


小森谷先生は普通に言った。


普通すぎて、佐知はどういう顔をすればいいか分からなかった。


うれしい、と言うには、まだ紙の上の出来事だった。


別に、と言うには、封筒から目が離れなかった。


「学校のアカウントに載せてもいいかな。文化センターのほうにも名前は出ると思う」


先生が言った。


佐知は口を開けて、閉じた。


「写真も、ですか」


「受賞作品だからね。嫌なら名前だけにできるか聞くよ」


嫌。


その言葉は出なかった。


傘立ては、嫌ではない。


でも、誰に見せたいかと聞かれると、よく分からない。


「大丈夫です」


佐知は言った。


言ってから、少し早かったと思った。


数日後、学校のアカウントに写真が載った。


スマホの画面に、自分の撮った傘立てが出ている。


小さな画像になると、床の水たまりはほとんど分からなかった。青い傘だけが少し目立つ。作品名と名前が、その下に並んでいる。


文化センターの投稿にも、同じ写真があった。


いいねの数は、驚くほど多くはない。


でも、ゼロではなかった。


「高校生でこれ撮るの渋い」


「雨の日の感じ好き」


「タイトルそのままなのいい」


知らない人の短い言葉が、画面の下に増えていく。


佐知はベッドの上で膝を抱え、何度も同じ投稿を開いた。


閉じて、また開く。


通知を切ろうとして、切らない。


スクリーンショットを撮ろうとして、やめる。


自分の写真なのに、自分の手元から少し離れた場所で、勝手に薄く光っている。


悪い気はしなかった。


それが、少し怖かった。


「阿久津さん?」


やえの声が、また近くなった。


佐知は喫茶ポニー跡のカウンターを見た。


白いカップ。


ぺしゃんこの紙パック。


やえのスマホ。


全部、今の場所に戻っている。


でも、画面の中にあった傘立てだけは、まだ戻ってこなかった。


「何か思い出してました?」


やえが聞いた。


佐知は白いカップの内側を見たまま、答えた。


「傘立て」


「傘立て?」


「うん」


「写真部、急に生活感ありますね」


「写真部なんて、大体生活感でできてる」


言ってから、佐知は少しだけ息を吐いた。


画面の向こうで増えた知らない人の言葉は、もう読めない。


それでも、雨の日の傘立ては、まだ消せない場所に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ