第021話 マエノホウ・一
画面は暗いままだった。
佐知のスマホは、ポケットの中で何も映していない。指先だけが、ケースの角をなぞっている。
やえのスマホには、ぺしゃんこの紙パックが残っていた。
暗い写真だった。
曲がっている。
桃の絵は半分切れている。
ピントは奥の皿に合っている。
佐知は、言わなかっただけで、直したいところをいくつも見つけていた。もう少し右。もう少し下。影を避ける。奥の皿を入れるなら、紙パックの位置を変える。入れないなら、もっと近づく。
考えるほど、紙パックはただの紙パックではなくなる。
やえは画面を見て、満足そうにうなずいた。
「ぺしゃんこですね」
「さっきも言ってた」
「大事なので」
「何が」
「ぺしゃんこ度」
「度をつけないで」
ハルエがカウンターの内側で笑った。皿をすすぐ水の音が、細く続いている。泡はすぐ流れていくのに、シンクの端に少しだけ残る。
「あんたたち、真面目に紙くず見すぎ」
「紙くずじゃないです。紙パックです」
やえが言う。
「くずになる手前でしょ」
「今、いちばんいいところです」
「物にも青春があるんだね」
「あります」
やえは真顔で答えた。
佐知は、笑えなかった。
紙パックにも青春がある、と言われたことが変だったからではない。変なのはいつものことだ。笑えなかったのは、やえがそれを本気で言っているように見えたからだった。
ぺしゃんこの紙パック。
洗われている古い皿。
染みの残った白いカップ。
鞄の底の白い紙。
全部、同じ場所に並べるには違いすぎる。違いすぎるのに、佐知の中では、勝手に近くへ寄ってくる。
「阿久津さん」
やえが言った。
「何」
「今、直したい顔してました」
佐知の指が止まった。
「してない」
「してました」
「紙パックの写真を直してどうするの」
「直したいんですね」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話ですか」
「別に」
「また別に」
やえはスマホをカウンターに置いた。画面は上を向いている。紙パックの写真は、そこにある。消されていない。
佐知なら、たぶん消す。
撮った直後に消す。
撮り直して、まだ気に入らなければまた消す。光を見て、角度を見て、余計なものを避ける。何を入れて、何を入れないかを考える。
それを、前は普通にやっていた。
普通に、という言葉が、少し遅れて引っかかった。
「阿久津さんって」
やえは紙パックの写真を指で少し拡大した。
「ちゃんと撮ってた人ですよね」
ちゃんと。
その二音だけが、店の中で急に硬くなった。
水の音が遠くなる。
皿がシンクに当たる音も、鈴の余韻も、外を通る車の音も、少しずつ後ろへ下がった。
佐知は何も言わなかった。
言えなかった、のほうが近い。
ちゃんと撮ってた。
その言い方には、褒める感じがある。たぶん、やえは褒めたつもりなのだろう。少なくとも、刺そうとして言ったわけではない。
でも、佐知の中では、別の声に聞こえた。
ちゃんと撮らなきゃ。
ちゃんと見なきゃ。
ちゃんと前よりよくしなきゃ。
ちゃんと。
ちゃんと。
ちゃんと。
同じ言葉は、重なると音ではなくなる。薄い紙を何枚も重ねたみたいに、透けない白になる。
「阿久津さん?」
やえが顔を上げた。
佐知はスマホから手を離した。触っていないのに、指先に熱が残っている。
「何で、そう思うの」
声は思ったより低かった。
やえは少しだけ首を傾けた。
「見てるから」
「何を」
「写真を見るときの顔」
「顔の話ばっかり」
「喋るので」
「喋らない」
「さっきも喋ってました。影が邪魔、って」
「言ってない」
「顔が」
佐知は口を閉じた。
やえの紙パック写真は、まだ暗い画面に残っている。佐知の目は、ついそこへ戻った。影。皿。水滴。曲がった桃の絵。全部、直せる。直せるところが多い。
直せるところが多い写真は、前なら楽だった。
今は、見ているだけで疲れる。
「昔、やってたんですか」
やえが聞いた。
「何を」
「写真」
佐知はすぐには答えなかった。
ハルエが皿を一枚、タオルに立てかけた。かた、と音がする。
「やってたってほどじゃない」
ようやく出した声は、薄かった。
「ほどじゃないって、便利ですね」
「便利でいい」
「写真部の幽霊なのに」
「それ、もう言わないで」
「じゃあ生きてる写真部」
「もっと嫌」
やえは少し笑った。
佐知は笑わなかった。
写真部。
その言葉は、思ったより近くにあった。ずっと遠くに置いていたつもりだったのに、喫茶ポニー跡のカウンターの上、ぺしゃんこの紙パックの隣くらいに置かれている。
「高校のとき」
佐知は言った。
言ってから、続きを言わないでいられるか考えた。
やめればいい。
何でもない、と言えばいい。
やってたけど飽きた、と言えば済む。
でも、ちゃんと、という言葉がまだ店の中に残っていた。水で流しても落ちない染みみたいに、白いカップの内側に薄く残っている。
「高校のとき、少しだけ」
「少しだけ、ちゃんと?」
「その言い方やめて」
「じゃあ、少しだけ写真部」
「それも変」
「じゃあ何ならいいんですか」
佐知は答えなかった。
何ならいいのか、自分でも分からなかった。
好きだった、と言うには、今が遠い。
嫌いだった、と言うには、嘘が多い。
得意だった、と言うには、恥ずかしい。
だめだった、と言うには、最初からだめだったわけではない。
ハルエが水を止めた。
急に店の中が静かになる。
静かになると、外の音が戻ってきた。自転車のブレーキ。遠くの電車。商店街の誰かの笑い声。
佐知はカウンターの上のカップを見た。
白いカップ。
洗っても残る薄い輪。
それを見た瞬間、別の白が重なった。
高校の廊下の、昼休みの光。
写真部の部室ではなく、理科準備室の隣の小さな空き教室。
窓際に置かれた古いデジカメ。
棚の上に積まれた、誰かの卒業制作のパネル。
そこに、まだ今より少し短い髪の佐知が立っている。
手には、借り物のカメラがあった。
重さは、思っていたより軽かった。
軽かったのに、首から下げると、少しだけ自分のものみたいに感じた。
「阿久津さん」
やえの声が、遠くで聞こえた。
佐知は返事をしなかった。
白いカップの内側に残った輪が、空き教室の窓の光と重なっていた。
水を止めたあとのシンクから、最後の一滴が落ちた。
ぽた、と小さく鳴る。
その音で、店の床の古さが戻ってくる。けれど佐知の目は、まだ白いカップの底に残った薄い輪から離れなかった。




