第020話 ペラリ・四
言葉は、出た瞬間に固まった。
高校生には分からないでしょ。
佐知の声だった。
喉だけが、遅れて苦くなる。
けれど、屋上の床に落ちたそれは、佐知のものではないみたいに見えた。拾おうとしても、もう形が変わっている。踏めば割れる。放っておいても、そこにある。
やえはすぐには返さなかった。
フェンスにもたれたまま、少しだけ空を見た。夕方の光は弱くなっているのに、白い制服の襟だけが妙にはっきりしている。
「まあ」
やえが言った。
「高校生なので」
その返しは軽かった。
軽いのに、佐知の胸のあたりで止まった。
怒ってくれたほうが、まだよかった。
「そういう意味じゃ」
佐知は言いかけて、止めた。
そういう意味じゃない。
逃げ道みたいな言葉だ。
言ったことを、少しだけ違う場所に置き直せる。置き直せる気がするだけで、消えるわけではない。
やえはフェンスから背中を離した。
「下、行きます」
「何で」
「水、ぬるいので」
「コンビニで買えば」
やえは、少しだけ目を細めた。
「阿久津さん、今、それで逃げます?」
佐知は黙った。
鞄の中で、書類が少し動いた気がした。実際には何も動いていない。佐知が肩に力を入れただけだ。
屋上の扉が、風で小さく鳴った。
やえはその音のほうへ歩き出す。佐知は少し遅れてついていった。ついていかない選択もあった。けれど、一人で屋上に残るには、さっきの言葉が大きすぎた。
階段を下りるあいだ、やえは何も言わなかった。
佐知も言わなかった。
外階段の手すりは、夕方になって少しだけ冷えていた。昼間の熱が完全に抜けたわけではなく、表面だけが薄く落ち着いている。触ると、手のひらに古い鉄の匂いがついた。
一階まで下りると、喫茶ポニー跡のガラス戸が少し開いていた。
中から、水の音がする。
じゃぶ、というほど大きくない。蛇口を細く出したまま、何かを洗っている音だった。金属のシンクに水が当たり、皿が動くたびに、かちゃ、と小さく鳴る。
ハルエがカウンターの内側にいた。
袖をまくり、白い皿を一枚ずつ洗っている。閉店した店の皿なのに、泡は新しい。スポンジの黄色だけが、やけに明るかった。
「あれ、今日もいたの」
ハルエが顔を上げずに言った。
「いました」
やえが答える。
「水くらい出すよ。屋上に生える子は、水やらないと枯れる」
「私、草ですか」
「似たようなもんでしょ」
「光合成してないです」
「してそうな顔のときあるよ」
やえは納得していない顔をしたが、言い返さなかった。
佐知は入口の近くで止まった。店の中は、前より少し片づいている。椅子は壁際に寄せられ、カウンターの上には皿とカップが並んでいた。洗ったものと、まだ洗っていないものが、タオル一枚分の距離で分かれている。
「入るなら閉めて。虫が入る」
ハルエに言われ、佐知はガラス戸を閉めた。
鈴が鳴った。
ちり、と短い音。
その音が終わる前に、やえがカウンターへ近づいた。
「それ、使うんですか」
「使うかもしれないし、使わないかもしれない」
「便利」
「だいたい便利なほうが長持ちする」
ハルエは皿をすすいで、横のタオルに立てかけた。白い皿の縁に、細い青い線が入っている。どこにでもありそうな皿だった。どこにでもありそうで、今はこの店にしかない。
佐知の目は、その隣のカップで止まった。
白いカップ。
取っ手の根元に、薄い茶色の染みがある。洗えば落ちそうで、落ちなさそうな色。内側には、古いコーヒーの輪の跡がうっすら残っている。
撮りたい。
そう思った。
思った瞬間、鞄の底の紙が先に浮かんだ。
白い紙。
黒い文字。
折れた角。
このカップも白い。
紙も白い。
白いものは、何も言わない顔でそこにある。放っておくと、こちらが勝手に意味を載せる。
佐知はポケットのスマホに触れた。
カメラを開けば、カップは画面に入る。
取っ手。
染み。
皿の青い線。
水滴。
ハルエの手。
撮れる。
今度は、撮れるかもしれない。
「汚れ、落ちないんじゃないですか」
やえが言った。
「落ちないのもあるね」
ハルエはカップの内側を指でこすった。爪が陶器に当たって、小さく鳴る。
「じゃあ何で洗うんですか」
「汚れたまま捨てるのも、なんか嫌じゃない」
ハルエはそう言って、カップを水の下に戻した。
怒っているわけでも、惜しんでいるわけでもない声だった。皿を洗う手も、特別丁寧ではない。泡をつけて、こすって、すすぐ。それだけ。
それだけなのに、佐知はスマホを出せなかった。
カップの内側で、泡が一つだけ割れた。
それでも、指は動かなかった。
佐知はスマホから手を離した。
「阿久津さん」
やえが呼んだ。
佐知は顔を上げる。
やえはトートバッグの中をごそごそ探っていた。出てきたのは、ぺしゃんこの紙パックだった。桃の絵がついている。角がつぶれ、ストローの穴の周りだけが少し黒ずんでいる。
「まだ持ってたの」
佐知は思わず言った。
「持ってたというか、いました」
「捨てなよ」
「今から捨てます」
やえは紙パックをカウンターの端に置いた。
ハルエが横目で見る。
「それは洗わないよ」
「分かってます」
「ほんとに?」
「半分くらい」
「半分じゃ足りない」
やえは紙パックを指で押した。ぺこ、という音がして、さらに平らになる。桃の絵の顔が、折り目でゆがんだ。
やえはスマホを出した。
何の迷いもなかった。
紙パックに向ける。
近すぎて、影が入っている。画面の端に、カウンターの水滴と、ハルエが洗った皿の白が少しだけ入った。
佐知なら、角度を直す。
影を避ける。
紙パックだけにするか、皿も入れるか、先に決める。
やえは決めない。
そのまま撮った。
シャッター音はしなかった。やえが小さく「よし」と言っただけだった。
「何がよしなの」
佐知が聞く。
「ぺしゃんこです」
「見れば分かる」
「見れば分かるもの、撮ると楽です」
「楽?」
やえは画面を佐知に向けた。
紙パックは、ひどい写り方をしていた。
暗い。
曲がっている。
桃の絵は半分切れている。
ピントは奥の皿に合っている。
でも、ぺしゃんこだということだけは分かった。
「意味がないものって、気楽じゃないですか」
やえが言った。
佐知は画面を見た。
意味がない。
その言葉は、少しだけ羨ましかった。
鞄の底の紙には、意味がありすぎる。
カップにも、皿にも、洗う手にも、佐知は意味を乗せすぎる。
やえの紙パックは、ただつぶれていた。
ただつぶれて、画面の中に残っていた。
佐知は自分のスマホに触れた。
画面は暗いままだった。




