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第019話 ペラリ・三

紙は薄いのに、底まで沈まなかった。


佐知は鞄の口を片手で押さえたまま、やえを見た。


やえはスマホを持っている。


画面はまだ、さっき撮った草の写真になっていた。ひび割れた床から出ている細い草。ピントは少し手前にずれている。葉の先より、床の砂粒のほうがはっきりしていた。


やえは、その画面を伏せなかった。


でも、佐知の鞄には向けなかった。


「撮らないんだ」


佐知は、言ってから自分で嫌になった。


言わなくていいことを、先に置いてしまった。


やえはスマホを見下ろした。


「撮ってほしいんですか」


「違う」


「ですよね」


「だったら聞かないで」


「阿久津さんが言ったので」


「今のなし」


「聞きました」


やえはスマホをポケットに入れた。ゆっくりだった。見せつけるほどではない。でも、佐知が見逃せないくらいには、はっきりしていた。


撮らない、という動き。


ポケットの布が少しふくらみ、スマホの角だけが形になって残った。


それだけで、見たことがなくなるわけではない。


佐知は鞄の中の書類をさらに押し込んだ。紙の角が爪に当たる。ほんの少しだけ、爪の間に痛みが入った。


「忘れてって言った」


「下手って言いました」


「忘れるのが?」


「はい」


やえは給水塔の影から立ち上がった。制服のスカートの裾に、屋上の細かい埃がついている。手で払うでもなく、そのままフェンスのほうへ歩いた。


佐知は水のボトルを握った。コンビニで買ったばかりなのに、表面の冷たさはもう弱くなっている。


「大学」


やえが言った。


佐知の指がボトルに沈んだ。薄いペットボトルが、ペコ、と少しへこむ。


「何」


「大学って、書いてありました」


「見えたんでしょ」


「はい」


「じゃあそれで終わり」


「休学も、見えました」


佐知は黙った。


風がフェンスを抜けた。錆びた金網が、音にならないくらい小さく揺れる。遠くの駅で、発車メロディが短く鳴った。


やえは、続けて何かを言う顔をしていなかった。


ただ、見たものを見たと言っただけの顔だった。


それが余計に嫌だった。


心配そうにされたら、怒れた。からかわれたら、言い返せた。大変ですね、と言われたら、知らないくせに、と切れた。


でも、やえは何も足さない。


見えました。


大学って、書いてありました。


休学も、見えました。


ただ並べられると、佐知のほうが勝手に余計な意味を足す。


行けていないことも、決めていないことも、言われた気がしてしまう。


「別に」


佐知は言った。


「別に、何」


「何でもない」


「何でもなくはなさそうです」


「見ただけで分かった気にならないで」


声が、思ったより硬く出た。


やえは少しだけ眉を上げた。


「分かった気にはなってないです」


「なってる」


「休学の紙があるな、とは思いました」


「それが分かった気ってこと」


「紙に書いてあったので」


「そういうことじゃない」


佐知は鞄のファスナーを閉めようとした。途中で紙の端が引っかかり、閉まらなかった。もう一度開けて、書類を押し込む。水のボトルが邪魔になる。財布もずれている。スマホは底に落ちたまま、薄い紙の近くにある。


鞄の中は、佐知の頭の中みたいだった。


入れたはずのものが、全部少しずつずれている。


「阿久津さん、大学生なんですね」


やえが言った。


「そうだけど」


「そう見えないです」


「悪かったね」


「悪いとは言ってないです」


「言ってるみたいに聞こえる」


「じゃあ、そう聞かないでください」


「無理」


「私も無理です」


やえはフェンスに背中を預けた。金網が少しだけ鳴る。制服の白い襟が、夕方の光で黄色っぽく見えた。


「大学って、何するところですか」


「学校」


「雑」


「高校も学校でしょ」


「そうですけど」


「なら分かるでしょ」


「じゃあ、休むのも学校休むのと同じですか」


佐知は答えなかった。


同じではない。


同じだと言えば、軽くなる。


違うと言えば、何が違うのか説明しなければいけない。


復学。


退学。


延長。


相談。


期限。


どれも口に出すと、屋上の床に置かれてしまう。置かれたものは、やえにも見える。見えたら、また忘れてとは言えない。


佐知はスマホを取り出した。


ロック画面を見たかったわけではない。見たくなかったわけでもない。手が、そこへ逃げただけだった。


通知はない。


時刻だけ。


何もない画面に、自分の顔が薄く映っている。口元が固い。目が、やえから逃げている。


カメラを開けば、鞄の中の白い紙が撮れる。


撮ってしまえば、ただの紙になるかもしれない。


大学名。


休学。


延長。


黒い文字。折れた角。鞄の布の暗さ。コンビニの水の透明な影。


それだけなら、撮れる。


撮れるはずなのに、佐知の指はカメラのアイコンに触れなかった。


紙を撮るのは、紙だけを撮ることではなかった。


「阿久津さん」


やえが呼んだ。


佐知は画面を暗くした。


「何」


「大学って、そんな上ですか」


声は大きくなかった。


からかう調子でもなかった。


それなのに、佐知の中で何かがはっきり引っかかった。


「偉いとかじゃない」


「じゃあ、何でそんな顔するんですか」


「どんな顔」


「見られたら終わり、みたいな顔」


「終わりなんて言ってない」


「顔が言ってます」


「顔は喋らない」


「阿久津さんの顔はわりと喋ります」


「うるさい」


やえは少し黙った。


沈黙の中で、佐知は自分の手を見た。スマホを握る指が白くなっている。鞄のファスナーは半分だけ閉まっている。そこから、白い紙の角がまだ少し見えている。


隠せていない。


見られた。


言われた。


その三つが、順番を無視してぐるぐる回る。


「高校と違うから」


佐知は言った。


「何がですか」


「いろいろ」


「いろいろは便利です」


「便利でいい」


「説明したくないだけじゃないですか」


「そうだよ」


言ってしまってから、佐知は息を止めた。


やえが少しだけ目を細める。


「説明したくないなら、そう言えばいいのに」


「言ってる」


「言ってないです。大学っぽい顔してるだけです」


「何それ」


「上から見てる顔」


「見てない」


「見てます」


「高校生には分からないでしょ」


言葉は、出た瞬間に固まった。


やえの背中に寄りかかっていた金網が、ぎし、と鳴った。佐知の手の中で、暗くしたばかりのスマホがまだ少し熱かった。口の中に、さっき飲んだ水のぬるさだけが残っている。

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