第018話 ペラリ・二
母のLINEは、画面を暗くしてもまだ読めた気がした。
今日、大学行けた?
文字は消えている。スマホは佐知の手の中で黒い板に戻っている。それなのに、質問だけが指の腹に残っていた。
佐知は駅前の花壇から一歩離れた。
レシートはまだ土の上にある。風で角がめくれて、また戻る。何かを言いかけてやめる口みたいだった。
佐知はスマホをつけた。
ロック画面に、大学のメールと母のLINEが並んでいる。
並ぶと、どちらも同じことを言っているように見えた。
早くしなさい。
そう書かれているわけではない。
大学のメールは事務的で、母のLINEは短い。怒ってもいないし、責めてもいない。たぶん、ただ聞いているだけだ。
ただの質問なのに、返す場所がなかった。
佐知は大学の通知を横に払った。
画面の端へ流れて、消える。
母の通知も、同じように払った。
消える。
消えたのはロック画面からだけだと分かっている。メールもLINEも、アプリの中には残っている。未読の印も、返信していない事実も、何も減っていない。
それでも、いったん見えなくなった。
佐知はスマホをポケットにしまった。
三歩歩いた。
四歩目で、また取り出した。
ロック画面には、時刻だけが出ていた。
何もない。
何もない画面は、何かを隠しているみたいに見えた。
佐知はまた画面を暗くした。
駅へ向かえば、改札がある。
家へ帰れば、返信しない理由がなくなる。
丸藤第六ビルへ行くのは、昨日、帰ると言った自分に負ける気がした。
どれも嫌で、佐知はコンビニに入った。
自動ドアが開くと、冷房の空気が膝のあたりから入ってきた。店内は外より明るい。床が白く光っていて、棚の値札まで必要以上にはっきり見えた。
何か買うものがあるふりをして、飲み物の棚まで歩く。
麦茶は昨日飲んだ。
水は味がしない。
カフェオレは甘すぎる。
どれを選んでも、選んだ理由が弱い。
佐知は結局、いちばん小さい水を取った。手の中で軽い。軽すぎて、買う理由が余計になくなる。
レジ前には、二人並んでいた。
前の人がスマホ決済の画面を出している。バーコードが読み取れず、店員が端末を少し傾けた。ピッ、という音がして、列が一つ動く。
佐知は鞄に手を入れた。
財布は、いつもの内ポケットにあるはずだった。
指先が、先に薄いものに触れた。
紙だった。
つるつるしていない。少しざらついて、角が折れている。何度も鞄の底で押されて、端だけが弱くなった紙。
佐知の指が止まった。
水のボトルが、もう片方の手で汗をかき始める。冷たい滴が親指の付け根へ落ちた。
後ろに人が並んだ気配がした。
「次の方どうぞ」
店員の声で、佐知は紙から指を離した。
財布はその下にあった。
下、ではない。
書類のほうが、財布の上にずれてきていた。
佐知は財布だけを引っ張り出そうとした。紙の端が一緒に持ち上がる。ぺら、と小さく鳴った気がした。
実際には、店内の音に混ざって聞こえなかったかもしれない。
でも、佐知には聞こえた。
「百二十円です」
「はい」
声が少し遅れた。
小銭を出すつもりだったのに、指がうまく動かなくて、結局千円札を出した。店員は何も言わずに受け取る。レジの引き出しが開いて、硬貨の音がした。
「レシートご利用ですか」
佐知は一瞬、花壇のレシートを思い出した。
白い紙。
土。
めくれる角。
「大丈夫です」
言ってから、何が大丈夫なのか分からなくなった。
水のボトルを受け取り、店を出る。
外の空気は、コンビニに入る前より重かった。冷えた腕に、駅前の熱が貼りついてくる。
佐知はスマホを出した。
ロック画面。
時刻だけ。
通知はない。
通知がないのに、母のLINEが見える。
佐知はLINEを開きかけて、やめた。アプリのアイコンに触れたところで、指を離す。返信の画面を開いたら、何かを打たなければいけない気がした。
行けてない。
行こうとしてない。
行ったことにしたい。
どれも送れない。
佐知はスマホを鞄に入れた。今度は内ポケットに入れたつもりだったのに、うまく入らず、底のほうへ落ちた。
紙に当たる感触がした。
薄いもの同士が擦れる。
佐知は鞄の口を閉じた。
駅へは行かなかった。
帰る方向にも曲がらなかった。
足は、丸藤第六ビルのほうへ戻っていた。
昨日も出てきた入口は、何も言わずにそこにあった。古い看板も、郵便受けも、少し欠けたタイルも、佐知が帰ると言ったことを覚えていない。
覚えていないものは楽だ。
佐知は階段を上った。
二階の踊り場で、スマホが鞄の中でまた紙に触れた。薄い音がする。ぺら、というほどはっきりしていない。もっと湿った、小さい音。
屋上の扉は、少しだけ開いていた。
やえは給水塔の影にしゃがんでいた。
床のひびに生えた細い草を、スマホで撮っている。片膝を立てて、画面をかなり低くしている。そこまでして撮るものではない、と佐知は思った。
思ったあとで、少しだけ羨ましくなった。
「また来たんですか」
やえは顔を上げずに言った。
「通り道」
「通り道に屋上あります?」
「あることもある」
「便利な道ですね」
「うるさい」
やえは草を撮った。シャッター音は出ない設定らしい。代わりに、やえが「よし」と言った。
「何がよしなの」
「草が逃げなかったので」
「逃げないでしょ」
「阿久津さんは逃げるじゃないですか」
「草と比べないで」
やえは笑って、スマホを下ろした。
佐知はプラ椅子には座らず、フェンスの近くに立った。コンビニの水を鞄から出そうとして、ファスナーを開ける。
中で、スマホが斜めになっていた。
財布も、少しずれている。
その下から、白い紙の角が見えた。
佐知は急いで押し込もうとした。
焦ると、紙は余計に出てくる。
二つ折りの端が鞄の口に引っかかり、ぺらりと持ち上がった。屋上の風がそこだけ拾う。白い紙が一瞬だけ開いて、黒い文字の一部が見えた。
大学名。
休学。
延長。
全部ではない。
全部ではないのに、十分だった。
やえの視線が、スマホから紙へ移った。
佐知は紙を押さえた。
遅かった。
「見た?」
声が先に出た。
やえは、少しだけまばたきをした。
「見えました」
「見ないで」
「もう見えたあとに言われても」
「じゃあ忘れて」
「忘れるの、下手です」
やえの手の中にスマホがある。
何でも撮る手。
溶けたアイスも、錆びたフェンスも、佐知の靴も、ひびの草も撮る手。
その手が、今は動かなかった。
カメラは佐知のほうを向いていない。
それなのに、見られたことだけは、はっきり残った。
佐知は書類を鞄の中へ押し戻した。
紙は薄い。
薄いのに、底まで沈まなかった。




