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第017話 ペラリ・一

喫茶ポニー跡を出ると、外の明るさが少し白く見えた。


ガラス戸の鈴は、ハルエが鍵をかける前に一度だけ鳴った。ちり、と小さく揺れて、それで終わった。


やえはビルの入口のほうへ先に歩き出している。手には、空になった麦茶のペットボトルがある。底に残った一滴が、歩くたびに透明な線になって動いた。


「阿久津さん、今日、どっちですか」


「どっちって何」


「帰るか、屋上か」


「帰る」


「早い」


「閉めるって言われたでしょ」


「屋上は閉まってないですよ」


「そういう問題じゃない」


やえは入口脇で振り返った。丸藤第六ビルの窓から入る午後の光が、壁の古い掲示板を斜めに照らしている。剥がれかけたテープの跡だけが、紙より長生きしていた。


「また明日?」


軽く聞かれた。


軽いのに、佐知はすぐには返事ができなかった。


また明日。


その言い方には、予定を決める感じがあまりない。来ても来なくても、ビルは建っている。やえも、たぶんどこかにいる。ハルエはカップを箱に戻している。


でも、明日という言葉を聞くと、佐知の中では別の紙が勝手に開く。


今日は持っていない紙。


部屋の机の横に置いてきた鞄。


その底に入れたままの青いクリアファイル。


日付。


期限。


提出。


書類。


単語だけが、薄い紙みたいに重なってくる。


「分かんない」


佐知が言うと、やえは「それも早い」と言った。


「早くない」


「分からないの判断が早いです」


「分からないものは分からない」


「強い」


「強くない」


やえは空のペットボトルを軽く握った。ペコッ、と音がした。前にも聞いた音なのに、今は少し大きく聞こえた。


「じゃあ、見つけたら声かけます」


「何を」


「阿久津さんを」


「人を落とし物みたいに言わないで」


「落ちてたら拾います」


「拾わなくていい」


やえは笑って、ビルの入口へ歩いていった。


佐知は一歩遅れて続いた。古い床を踏むと、靴の裏に少しざらつきが残った。鉄の匂いと、古い洗剤みたいな匂いがする。


入口へ向かう途中で、ポケットの中のスマホが震えた。


短く一回。


佐知は足を止めなかった。


もう一度、震えた。


今度は長かった。


ビルの入口脇で、やえが自動販売機の横にあるゴミ箱にペットボトルを入れていた。空の容器が中で何かに当たり、軽い音を立てる。


「鳴ってますよ」


「知ってる」


「知ってるなら見ればいいのに」


「見なくても鳴ったことは分かる」


「哲学」


「違う」


佐知はポケットの上からスマホを押さえた。画面を見ないまま、音量ボタンを探す。爪がケースの縁に引っかかって、少し痛い。


見なくても分かる。


見たくないものだ。


そう思うと、だいたい当たる。


丸藤第六ビルの入口を出ると、駅前の音が一気に増えた。バスのブレーキ。信号の電子音。コンビニの自動ドアが開いて閉じる音。誰かの笑い声。


やえは「じゃ」とだけ言って、駅とは反対側へ歩いていった。


「帰るんじゃないの」


佐知が聞くと、やえは振り返らずに手を振った。


「帰り道が一個とは限らないんで」


どこに行くのか、聞けなかった。


やえの背中が人の間にまぎれる。制服の白い襟だけが一度見えて、それから消えた。


佐知は駅前の花壇の端に立った。夏の終わりの花は、名前が分からないまま小さく咲いている。赤と黄色と、少し乾いた緑。土の上に、誰かが落としたレシートが裏返しで張りついていた。


風が吹く。


レシートの角が、ぺら、と上がる。


佐知はそれを見た。


白い紙の端。


折れた角。


部屋に置いてきたものの形が、急に分かってしまう。


今日は小さなトートしか持っていない。スマホと財布だけ。軽いはずなのに、背中側に紙の角があるような気がした。


スマホがまた震えた。


佐知は画面を見なかった。


その日は、そのまま帰った。


駅の改札にも、大学方面のバスにも、部屋の机の横に置いた鞄にも触れなかった。スマホの通知は、見ないまま溜まった。


翌日の午後、佐知は机の横の鞄を見た。


昨日は置いていった。


今日は、置いていく理由が先に弱くなっていた。


青いクリアファイルは、鞄の底に戻したままだった。ファスナーを閉めても、紙の角が中で少し立っている気がする。持ち上げると、肩より先に胃のあたりが重くなった。


佐知は、いつもの鞄を持って家を出た。


丸藤第六ビルに行くつもりだったのか、駅に行くつもりだったのか、自分でも決めなかった。決めないまま歩くと、足は昨日と似た道を選んだ。


駅前の花壇に、また白いものが落ちていた。


昨日のレシートかどうかは分からない。雨も降っていないし、誰かが拾うとも思えない。けれど、紙は一日で少し汚れていた。端に土がつき、数字の列が薄くにじんでいる。


佐知は立ち止まった。


鞄の紐が肩に食い込む。


今度は、本当に底に紙がある。


スマホが震えた。


佐知は画面をつけた。


ロック画面に、メールの通知が出ていた。


差出人は大学の事務課だった。


件名は、画面の幅に合わせて途中で切れている。


【重要】休学期間延長手続きについて


その下に、本文の最初だけが見えた。


休学期間の延長を希望する場合は、所定の期限までに――


佐知は、そこから先を読まなかった。


希望。


その二文字だけが、妙に白かった。


希望する場合。


まるで、佐知が希望しているみたいだった。


休みたいです。


戻れません。


決められません。


どの言葉も、希望という入れ物には入らない。どちらかといえば、落として割ったものを紙袋に詰めている感じに近い。


佐知は通知を横に払おうとした。


指が途中で止まった。


消すと、なかったことにしたみたいになる。


開くと、あることになる。


どちらにしても、画面の向こうに大学の建物が出てくる。白い廊下。掲示板。事務課の窓口。番号札の機械。椅子に座って待つ人たち。


あの日、改札前で止まった自分の足まで、ついでに出てくる。


佐知は画面を暗くした。


暗くしただけで、通知は消えていない。


分かっている。


分かっていることが、いちばん邪魔だった。


花壇のレシートがまた風で動いた。表が少し見える。買ったものの名前は読めない。数字だけが細く並んでいる。


佐知は、あれなら撮れるかもしれないと思った。


落ちているレシート。


名前のない花。


駅前の乾いた土。


やえなら、たぶん撮る。


斜めでも、影が入っても、数字が読めなくても、撮って残す。あとで見返して、たぶん「駅前のやつです」と言う。


佐知はスマホを握り直した。


カメラを開くまで、指は動いた。


画面に、花壇が映る。


赤い花は思ったより色が強い。レシートは白すぎて、少し飛んでいる。奥を人の足が通るたびに、画面の明るさが小さく変わった。


撮れる。


そう思った。


レシートの角が、またぺら、と上がった。


鞄の底の紙も、同じくらい薄い。


同じくらい薄いのに、持つと重い。


佐知はシャッターボタンに触れなかった。


カメラの画面の上に、新しい通知が落ちてきた。


母の名前。


LINE。


一行だけ、はっきり読めた。


今日、大学行けた?


佐知はカメラを閉じた。


花壇も、レシートも、赤い花も、画面から消えた。


駅前の音はそのままだった。バスが動き、信号が変わり、コンビニのドアが開く。


佐知の手の中だけが、少し遅れて熱くなっていた。

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