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第016話 ブレブレノブ・四

やえの手元と横顔は、佐知の中で勝手に画面の形になっていた。


スマホを持つ指。


麦茶を持ち上げたときに少し濡れた親指。


ガラス戸から入る光で、頬の線だけが細く明るくなる横顔。


その全部を、佐知は見ないようにした。


見ないようにすると、余計に見える。


やえは写真一覧を閉じずに、またさっきの靴の写真を開いた。


「保留の靴、意外といいです」


「その名前やめて」


「保留って感じがします」


「靴に感じを出さないで」


「逃げつつ、残りつつ」


「勝手に語らないで」


やえは画面を指で少し拡大した。佐知の靴のつま先が大きくなる。床の傷が、靴よりもはっきり見えた。


佐知はそれを見て、やっぱり下手だと思った。


思ったあとで、もう一つ思った。


やえの指が、画面の上で止まっている。


靴より、その指のほうがいい。


そう思ってしまった。


佐知はポケットの中でスマホに触れた。今度は、触れただけでは止まらなかった。指先が画面の端を探す。電源ボタンの固さが分かる。


やえは気づいていない。


ハルエはカウンターの内側で、古いカップを箱に戻している。カップ同士が当たって、かち、と乾いた音がした。


今なら。


佐知はスマホを出した。


画面がついた。


ロック画面に、通知が二つ並んでいた。大学のメールアプリの小さな封筒。母の名前。佐知は反射的に画面を伏せかけた。


見たくないものは、いつも見たいものの手前に出てくる。


佐知は親指で通知を上へ払った。消したわけではない。画面の外へ追いやっただけだった。


カメラを開く。


黒い画面が一瞬挟まって、喫茶ポニー跡の薄暗さが映った。


やえの手元は、画面の右側に入った。


スマホを持つ手。


麦茶のペットボトル。


少し曲がった肩。


画面の端に、白いカップの丸い縁。


撮れる。


そう思った瞬間、佐知の指は止まった。


撮れる、と思ったものは、急に重くなる。


勝手に撮られるのは嫌だった。


でも、撮りたい。


その二つが同じ場所に並ぶと、どちらを選んでも自分がずるい気がした。


佐知は、少しだけスマホを下げた。


画面からやえの手元が外れる。床と椅子の脚だけが残る。


「阿久津さん」


やえが言った。


佐知の肩が小さく動いた。


「何」


「今、構えました?」


「構えてない」


「また早い」


「構えてない」


「二回目」


やえは靴の写真を閉じて、佐知のスマホを見た。


「撮ればいいのに」


佐知は画面を暗くしようとして、指を迷わせた。カメラはまだ開いている。画面の中では、椅子の脚が斜めに入っている。


「何を」


「今、見てたやつ」


「見てない」


「見てました」


「見てただけ」


「見る側ですね」


「そう」


「撮る側にもなれますよ」


やえの声は軽かった。


軽いのに、佐知の中では重かった。


なれる、という言い方が嫌だった。なれないから困っているのに、できるみたいに言われると、できない自分だけが残る。


「撮らない」


佐知は言った。


「撮ってもよかったのに」


やえは、怒らずに言った。


その言い方が、いちばん困る。


だめです、と言われたほうがよかった。撮らないで、と言われたほうが、まだ楽だった。撮ってもよかったのに、は、佐知の手元に選ばなかったものを置いていく。


佐知はカメラを閉じた。


画面が暗くなる。


暗い画面には、佐知の顔がうっすら映った。目が少しきつい。口元が固い。さっきやえに言われた、写真部の幽霊みたいな顔、という言葉が戻ってくる。


幽霊は写るのだろうか。


そんなくだらないことを考えて、すぐにやめた。


「阿久津さん、撮る前に忙しそうです」


やえが言った。


「何それ」


「頭の中が」


「見えないでしょ」


「顔が喋るので」


「喋らない」


やえは麦茶を飲んだ。もうほとんど残っていない。ペットボトルの底に、茶色い水が薄く揺れている。


「私、あんまり考えてないですよ」


「知ってる」


「ひどい」


「見れば分かる」


「また採点」


「してない」


やえは笑って、カメラロールを開き直した。


溶けたアイスの写真が出る。


昨日の屋上。


白いアイスが、紙カップの縁からだらしなく逃げている。影が強くて、ピントは奥のフェンス。佐知なら消す。たぶん、見た瞬間に消す。


やえは消していない。


「これも、だめですか」


「だめとは言ってない」


「下手?」


「下手」


今度は、言ってしまった。


やえは「正直」と言った。


佐知は画面を見た。


下手だ。


けれど、昨日の熱さはあった。溶ける速度も、やえの手の雑さも、フェンスの向こうの白い空も、少しだけある。


「でも」


佐知は言いかけた。


やえが顔を上げる。


「でも?」


「……何でもない」


「途中で止めるの、悪い大人です」


「大人じゃない」


「ほぼ」


「ほぼでもない」


やえはアイスの写真を見た。


「ブレてても、昨日のアイスは昨日のアイスなんで」


それは、軽い言い方だった。


正しいことを言った、という顔でもない。佐知を慰めようとした顔でもない。ただ、そういうものとしてそこに置いた言葉だった。


昨日のアイスは、もうない。


カップも、たぶん捨てた。


溶けた白い線も、屋上の床には残っていない。


でも、画面にはある。


ブレている。


暗い。


ピントは合っていない。


それでも、昨日のアイスだ。


佐知は、何も言えなかった。


ハルエがカウンターの中で鍵の束を持ち上げた。じゃら、と音がする。


「そろそろ閉めるよ」


「閉まってたのに」


やえが言う。


「もっと閉める」


「段階がある」


「あるよ。だいたい何でも」


ハルエは古いカップに布をかけた。


佐知はスマホをポケットにしまった。さっき開いたカメラの感触が、まだ指に残っている。撮らなかった。やえの手も、横顔も、アイスの写真を見ていた顔も、何も残っていない。


けれど、やえの言葉だけが残った。


ブレてても、昨日のアイスは昨日のアイスなんで。


佐知は、店の外の明るさを見た。


ガラス戸の鈴が、閉める前から少し揺れていた。

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