第015話 ブレブレノブ・三
「何それ」
自分の声が低く出たあと、店の中が一拍だけ静かになった。
ハルエの紙袋をたたむ音も止まっていた。ガラス戸の向こうで車が通る。鈴は鳴らない。やえのスマホの画面だけが、靴の写真を明るくしている。
やえは少し目を丸くしたまま、口を閉じた。
いつもの軽い返事が、すぐには出てこない。
佐知は、言い過ぎたと思った。けれど謝るほどの言葉も見つからなかった。言い過ぎたのか、言われ過ぎたのかも、まだ分からない。
「幽霊は」
やえが言った。
「褒め言葉ではないね」
「だよね」
「だよね、じゃない」
「じゃあ、取り下げます」
やえはスマホを胸元に引いた。
「写真部の、ええと」
「続けなくていい」
「影」
「変わってない」
「写真部の、空気」
「もっと嫌」
やえは小さく笑った。笑い方が少し弱かった。
佐知はペットボトルのラベルから指を離した。押しつぶされたところに白い折れ目が残っている。麦茶のペットボトルはやえの手元にあり、水は佐知の前にある。どちらもぬるい。
「別に、写真部とかじゃない」
佐知は言った。
本当のことではない。
嘘とも言い切れない。
写真に触れていなかったわけではない。けれど、誰かに胸を張って言えるほどのものでもなかった。少なくとも今の佐知には、そういうことにしておきたかった。
だから、違うと言えば違う。
そういう逃げ方だけは、すぐ思いつく。
やえは佐知の顔をじっと見た。
「じゃあ、幽霊だけ残りました」
「残さないで」
「消します」
やえはスマホを操作するふりをした。
「今、私の頭の中から消しました」
「便利すぎる」
「脳内削除です」
「信用できない」
「ですよね」
やえはそう言って、少しだけ視線を下げた。
その先に、佐知の靴があった。
佐知は反射的に足を引こうとした。けれどカウンターと椅子の間で、動ける幅は狭い。靴のつま先が、さっきより少し内側を向いただけだった。
「動いた」
「見ないで」
「足、逃げました」
「足じゃない。私」
「阿久津さんの一部です」
「そういう言い方やめて」
やえはしゃがんだ。
佐知の返事を待たなかった。床に片膝をつくわけではなく、かかとを浮かせて、すぐ立てる形でしゃがむ。トートバッグが膝に当たって、かさ、と鳴った。
「撮らないで」
佐知は言った。
声は、思ったより小さかった。
やえはスマホを構えたまま顔を上げる。
「顔じゃないです」
「そういう問題じゃない」
「靴です」
「私の」
「はい。阿久津さんの靴」
やえはそこで少し止まった。
「だめですか」
聞かれると、答えに詰まる。
だめ、と言えばいい。
嫌なら嫌と言えばいい。
勝手に撮られるのは嫌だ。画面に入れられるのも嫌だ。自分の持ち物が、やえのカメラロールに増えるのも落ち着かない。
けれど、すでに一枚ある。
それを見て、悪くないと思ってしまった。
思ってしまったせいで、だめ、が少し遅れる。
その遅れを、やえは見た。
「足だけです」
「だから」
「嫌なら消します」
嫌なら。
先に撮る前提の言い方だった。
佐知は眉を寄せた。言い返そうとしたが、言葉が喉の奥で止まる。嫌だと言うには、嫌な理由を自分で掴まなければならない。掴んだら、もっと嫌になる気がした。
カシャ。
音が鳴った。
佐知のつま先が、画面に入った。
「撮った」
「撮りました」
「今の流れで?」
「今の流れで」
「消して」
やえは画面を見た。
「確認してからでも?」
「消して」
「まあまあ」
「まあまあじゃない」
やえは立ち上がらず、そのまま画面を佐知へ向けた。
そこには、佐知の靴が写っていた。
今度は、喫茶ポニーの床の上だった。古い木目。椅子の脚の影。佐知の白いスニーカー。右足だけが少し後ろに引けていて、逃げようとして失敗したみたいに見える。
画面の下には、やえの膝が少し入っていた。指も端にいる。相変わらず、余計なものが参加している。
それでも、前の屋上の靴より近い。
佐知の靴が、さっきより佐知のものに見えた。
嫌だった。
嫌なのに、見てしまった。
「下手」
佐知は言った。
言ってから、しまったと思った。
やえは、すぐ笑った。
「消して、より先にそれですか」
「今のは」
「下手いただきました」
「違う」
「記録しました」
「しないで」
「画面外記録です」
やえは立ち上がった。立ち上がるとき、スマホを持つ手が少し揺れる。細い指。短く切った爪。親指の腹に、スマホの光が青く乗っている。
佐知は、その手を見た。
さっきまで、自分の靴が画面に入れられることばかり気にしていたのに、今はやえの手のほうが気になった。
スマホを持つ角度。
指の力の抜け方。
撮ったあと、すぐ消す気のない親指。
雑に見えて、迷いは少ない。
やえは画面を自分に戻し、写真を拡大した。
「床、いいですね」
「靴じゃなくて?」
「床も参加型です」
「またそれ」
「阿久津さんの靴、逃げてます」
「逃げてない」
「ちょっと逃げてます」
やえは画面を拡大したまま、右足のつま先を指で囲むようにした。
「ここ」
「指で触らないで」
「画面です」
「画面でも嫌」
「難しい」
やえは本気で少し困った顔をした。
その顔が、佐知には不意だった。
ふざけているのに、少し困る。雑なのに、消すとはすぐ言わない。近づきすぎるのに、踏み込んだ自覚は遅れて来る。
やえは、ただ明るい子ではない。
そう思った瞬間、佐知の視線はやえの横顔に止まった。
喫茶ポニー跡の暗さの中で、やえの頬の輪郭だけがガラス戸の光を受けている。前髪の端が少し汗で束になっていた。唇は麦茶のせいか、少しだけ色が濃い。目はスマホの画面を見ている。
佐知は、息を浅くした。
撮りたい、と思った。
今度は靴でも、椅子でも、鈴でもない。
やえの手元。
スマホを持つ指。
画面を見て少し困っている横顔。
そこだけを、残したいと思った。
佐知の右手が、ポケットのスマホに触れかけた。
触れただけで止まる。
人を撮るのは違う。
許可がいる。
許可をもらったら、撮らなければならなくなる。
撮ったら、やえが画面の中の人になる。
そんな理屈が、一瞬で並んだ。
佐知は手を下ろした。
「消さないの」
佐知は、やえのスマホを見ながら言った。
やえは画面から顔を上げた。
「今の靴ですか」
「うん」
「嫌なら消します」
「嫌ならって」
「嫌ですか」
佐知は答えられなかった。
嫌だ。
嫌ではない。
嫌だけど、消えたら少し気になる。
どれも正しくて、どれも口にできなかった。
やえは佐知の返事を待っていた。珍しく、急かさなかった。ハルエは紙袋を棚にしまい、古いカップをまた一つ拭いている。
店の奥で、何かの箱が少し沈む音がした。
佐知は靴の写真を見た。
逃げている足。
床の傷。
椅子の影。
画面の端に入ったやえの膝。
下手だ。
それでも、そこにある。
「あとで」
佐知は言った。
「あとで?」
「あとで決める」
やえは少し笑った。
「保留」
「そう」
「阿久津さん、保留多いですね」
「悪い?」
「便利です」
「便利にしないで」
やえは麦茶を持ち上げた。
「じゃあ、保留の靴として残します」
「変な名前つけないで」
「タイトルです」
「いらない」
やえはまた笑って、写真一覧へ戻した。
佐知はその横顔を見ないようにした。
見ないようにしても、もう見ていた。
やえの手元と横顔は、佐知の中で勝手に画面の形になっていた。




